元禄九年正月廿七日、綱利は八景水谷にある弓削新助の野屋敷に出かけている。「御奉行所日記抄出」によると、正月五日頃から準備の慌しさが覗える。往きは駕籠であろうか判然としないが、帰りは「御船」で花畑御邸まで帰るのだと言う。八景水谷は花畑御邸の北約5㌔のところにある湧き水豊かな景勝地である。両所は坪井川でつながれているが、途中には舟の通航をさえぎるいくつかの橋が有ったらしいが、一時的に撤去が指示されている。舟はといえば前日、五隻ほどを坪井川の河口高橋町から15㌔ほど遡って八景水谷に上げた。川沿いに屋敷する人々は、御目見えを如何すべきかを藩庁に問うた。そのことは不要とされたが、静かに何事もなく舟が下るのを息を凝らして祈ったのであろう。迷惑な話しではある。綱利が若い頃、松井興長は痛烈な諫言をしている。「ご先祖さまを見習って・・」という。家臣にしてからが興長のような人物はもういない。
忠興の外出に対しての記録がある。道の悪い所にわざわざ土を入れるような事をする必要はない。土埃が立つようであれば水など撒くように、という達しである。