私は昭和17年1月生まれ、18年に祖父母と父が相次いで亡くなった。六月に祖母が亡くなり、一月も経たない内に祖父が亡くなった。十一月の半ば病床にあった父が死んだ。母は上京してきた祖母(実母)と共に、三人のお骨を抱き、我々姉弟の手を引いて東京を離れた。多分19年の春のことだと思われる。東京大空襲は翌年20年の3月、今にして思うと良くぞ東京を離れてくれたと思う。終戦直前の広島・長崎の原爆投下のむごたらしさがよく語られるが、東京の被災は死者の数からするとそれ以上である。此の時期になると、父や祖父母の死が、我々を助けてくれたのかもしれないと、最近思うようになった。私・66歳。
【伊也】永禄十一年生れ 初メ一色左兵衛督義有ニ嫁ス 義有亡キ後更ニ吉田左兵衛侍従卜部兼治
(身上千石)ニ嫁ス 慶安四年辛卯二月廿四日洛外吉田山神龍院ニテ卒去ス 年八十四
法号浄勝院雄譽英光
義有子
一、愛宕山福壽院住持幸能法印
兼治子
一、兼英 兼治家督
一、萩原右衛門督兼従
一、愛宕山福壽印住持幸賢法印
一、長束大蔵正家男・半左衛門室(細川家臣田中氏祖)
一、阿野中納言室
一、船橋従二位秀相室
一、小笠原備前長元室・たま(細川家臣) 長基・長光とも・・迦羅奢夫人殉死少斎嫡子
一、清田石見室(細川家臣)
「米田家臣中山宗俊覚書」より
(身上千石)ニ嫁ス 慶安四年辛卯二月廿四日洛外吉田山神龍院ニテ卒去ス 年八十四
法号浄勝院雄譽英光
義有子
一、愛宕山福壽院住持幸能法印
兼治子
一、兼英 兼治家督
一、萩原右衛門督兼従
一、愛宕山福壽印住持幸賢法印
一、長束大蔵正家男・半左衛門室(細川家臣田中氏祖)
一、阿野中納言室
一、船橋従二位秀相室
一、小笠原備前長元室・たま(細川家臣) 長基・長光とも・・迦羅奢夫人殉死少斎嫡子
一、清田石見室(細川家臣)
「米田家臣中山宗俊覚書」より
幽齋は、姉(壽光院)婿・佐々木越中守没落後、其の娘を養育し息忠興の猶子として清原秀賢に嫁がせた。
清原宣賢--+----業賢------枝賢--------秀賢
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| 佐々木越中守 |
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+--智慶院 |----● |
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| +--壽光院 |
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|---+--幽齋-----忠興==●
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細川晴員
「米田家臣中山宗俊覚書」より作成
清原宣賢--+----業賢------枝賢--------秀賢
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| 佐々木越中守 |
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+--智慶院 |----● |
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| +--壽光院 |
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|---+--幽齋-----忠興==●
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細川晴員
「米田家臣中山宗俊覚書」より作成