藩校サミットもあることだし、上妻文庫の細川内膳家「細川忠雄家譜」を読み始めた。元々は宮村典太の盤桓随筆所収の同記事を、上妻先生が昭和14年に書き写されたものである。当然毛筆で書き写されているが、まさに江戸期の文字である。細川忠雄すなわち細川内膳家五代当主である。忠英と書いたほうが分かりやすいかもしれない。藩校時習館の初代惣教を勤めた人である。忠英の父・忠季が内膳を名乗った事から、内膳家と呼ばれる。
随分以前に忠隆の子与八郎(忠恒・友山)・半左衛門(忠春)兄弟の幼名が、夫々坊丸・侍者丸であることをこの家譜で知った。今般は、半左衛門を徳川直臣にする話しが、藩主光尚となされていた事を知った。これは光尚の死により頓挫している。しかしながら半左衛門は、兄与八郎の致仕に伴いその知行をも加増されて家督した。又、友山(忠恒)存生の内に内膳家家士十三名を、本家家臣に成す事が相談されている。己の死後の家臣の将来を慮っての事である。「家臣共事ハ安心仕置度」と記されている。当サイト侍帳でも全てではないが名前が確認され、新発見となった。(禄高は忠恒時代のもの)
木村三郎左衛門 百六十石
草刈作大夫 百石
松本武左衛門 百五十石
愛教四郎助 百石 (元は藤懸氏、与八郎により改姓)
安藤善兵衛 百石
草刈彦之進 七拾石
江上弥兵衛 七拾石
高井彦左衛門 五人扶持ニ拾石
植野助左衛門 同上
和齊権兵衛 三人扶持拾石
荒木吉左衛門 同上
富田助之允 同上
吉住角大夫 同上 以上
さてこの後何が出てくるやら楽しみではある。差し当たって、侍帳に反映させる作業も出てきた。
追伸(22:12)愛教を最初登教と読んで、珍しい名前などとコメントした(削除)が大間違い、侍帳に愛敬四郎次なる人を発見、落着・・・「愛」と「登」くずし字はよく似ていますョ・・(汗)
随分以前に忠隆の子与八郎(忠恒・友山)・半左衛門(忠春)兄弟の幼名が、夫々坊丸・侍者丸であることをこの家譜で知った。今般は、半左衛門を徳川直臣にする話しが、藩主光尚となされていた事を知った。これは光尚の死により頓挫している。しかしながら半左衛門は、兄与八郎の致仕に伴いその知行をも加増されて家督した。又、友山(忠恒)存生の内に内膳家家士十三名を、本家家臣に成す事が相談されている。己の死後の家臣の将来を慮っての事である。「家臣共事ハ安心仕置度」と記されている。当サイト侍帳でも全てではないが名前が確認され、新発見となった。(禄高は忠恒時代のもの)
木村三郎左衛門 百六十石
草刈作大夫 百石
松本武左衛門 百五十石
愛教四郎助 百石 (元は藤懸氏、与八郎により改姓)
安藤善兵衛 百石
草刈彦之進 七拾石
江上弥兵衛 七拾石
高井彦左衛門 五人扶持ニ拾石
植野助左衛門 同上
和齊権兵衛 三人扶持拾石
荒木吉左衛門 同上
富田助之允 同上
吉住角大夫 同上 以上
さてこの後何が出てくるやら楽しみではある。差し当たって、侍帳に反映させる作業も出てきた。
追伸(22:12)愛教を最初登教と読んで、珍しい名前などとコメントした(削除)が大間違い、侍帳に愛敬四郎次なる人を発見、落着・・・「愛」と「登」くずし字はよく似ていますョ・・(汗)