寛永十二年六月の大学宛て忠利の書状はすごい。
其方事毎日城廻其上風雨之時も見廻候由聞届候
年寄候而ハ万事違物にて候間左様之心遣仕間敷
候煩不申候様ニ心得可申候謹言
六月廿三日 忠利
沢村大学殿
尚々其方いきて居候得ハ奉公にて候間其心得
可申候以上
「元気でいてくれ、それが奉公だ」というのだ。凄い殺し文句ではないか。
それに答えてか、亡くなったのは慶安三年九月十七日、九十一歳である。
光尚の傳役を勤めているが、その光尚の死をも見送っている。充分な奉公振りである。
其方事毎日城廻其上風雨之時も見廻候由聞届候
年寄候而ハ万事違物にて候間左様之心遣仕間敷
候煩不申候様ニ心得可申候謹言
六月廿三日 忠利
沢村大学殿
尚々其方いきて居候得ハ奉公にて候間其心得
可申候以上
「元気でいてくれ、それが奉公だ」というのだ。凄い殺し文句ではないか。
それに答えてか、亡くなったのは慶安三年九月十七日、九十一歳である。
光尚の傳役を勤めているが、その光尚の死をも見送っている。充分な奉公振りである。