津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

B型かい?

2008-03-19 11:30:14 | 徒然
 昨日のお昼のタモリの番組のゲストは「美保純」、会場に贈られた「花」の中に、贈主「OA会」というものがあった。「O型とA型の人でお酒を飲む会」だそうな。

 私はかって「B型かい」という同様の会を作った事が有る。会員はたったの三人でスタート(正会員)。三人が声をかけた人であれば参加は自由、血液型関係なし。但し「B型かい?」と声を掛けて、B型の人は「B会員」そうでない人は招待客、招待客は上座にお座りいただく。カウンターであれば中央、椅子席であれば奥の方にお座りいただくのは当然である。飲み代は割り勘、但し招待客には何故か500円の参加料をいただくという趣向である。「招待客が500円高いというのはおかしいだろうが」とか「最初から聞いてりゃ来てねえぞ」とか、くだを巻く者もいたが、「次からは招待しねーぞ」の一喝で、お会計も無事済んで二次会へと相なる。二次会はもちろん「B型」は関係なしである。四五年つづいてなんとなく尻ツボミになってしまった。
 招待客から徴収した500円×○人分のお金は、二次会に「御樽代 B型かい」としてお届けしたのは言うまでもない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忠利の湯治

2008-03-19 10:28:17 | 歴史
 忠利の最期の手紙「右のてくひより手なへ申計二候、しに可申様ニハ、無之候、可心安候、以上」は、その筆跡とともに、忠利の無念さが伺われて胸に来る。寛永十八年三月十日書状の端裏の自筆である。一週間後の十七日花畑屋敷で亡くなった。

 寛永十七年十一月四日、忠利は山鹿で湯治している。

   山鹿へ参湯へ入申候此前も入候餘りあか落候心候哉身はし/\と
  覚へ此度も其分候間身内煩少も無之間さらに入ぬ事と存ニより疝気
  斗あらい申候へハはや事之外能覚え申候加様之きとく成事無之候其
  方なとためにハ如何可有之候哉兎角あたヽめ候湯と覚候謹言
     十一月四日              忠利
       中庵老(波多氏)

 すでに病中にあった忠利だが、まだ気力にあふれた姿が見える。翌二月家老松井興長に対して若しもの時の後事を託している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぐじゃぐじゃ状態

2008-03-19 08:43:42 | 徒然
 「福岡県史・細川小倉藩」「熊本縣資料」「新熊本市史」、その他の信頼すべき資料から、個人の特定できる項目を侍帳に転記している。当主が亡くなった後の家督に係わる記事などからは、死亡の年月日や家族構成・年齢、家督や分知などの状況が分かり、先祖附では伺えない貴重な情報がある。また、召出しや加増の年月などが特定される事もある。それぞれ【消息】として該当者の欄に書き込んでいるが、相当量の書き込みになり、侍帳がぐじゃぐじゃ状態になってしまった。これは「侍帳」の体裁ではないとお叱りを受けそうだが、それは甘んじてお受けし我が道を行こうと思っている。時には「気違い」(今で言う老人性痴呆のようなものだろう)などの不穏当な表現の記事も有り、これをどうするかで悩みが深い。私の得意な「■■■」でやり過ごそうと考えている。別項に個人で取り上げた人物が、実はあるお宅の次男坊だと判明したりすると、爺様はもう狂喜乱舞である。一方では間違いを密かに抹消する作業も並行している(・・・)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする