「天正十年一色義有を御饗応の席にて被討果候節、一色之者と見誤、小腹を鑓にて突候故、一時はかりして果候、米田・有吉にも劣るましき者にて有しに惜しき事をしたりと後ニも被仰候と也」細川家臣嶋氏の祖・庄左衛門の事跡であるが、「此節家断絶」している。庄右衛門の甥又左衛門信由が、「金森法印之頼」にて慶長七年豊前にて千石を拝領して召出された。のち有馬の陳で討死している。
金森法印とは豊臣秀吉に仕えた金森可重の事である。後宗和流を興した金森宗和なる茶人がいるが、可重の息である。何故又左衛門が金森法印の世話で細川家に仕官が出来たのかという疑問が有った。よくよく調べると「熊本県史料近世編第二」の附録「主要人物略歴」に、「父織田掃部は尾張國春日井の産、織田信長に仕」と書き込みがある。何かこの当たりの繋がりからだろうと推測されるが、織田掃部なる人物が特定できない。「掃部介」とか「掃部頭」とか、二三人の人物が見える。これからまったく前へ進まないでいる。ご存知の方が居られればご教示願いたい。
金森法印とは豊臣秀吉に仕えた金森可重の事である。後宗和流を興した金森宗和なる茶人がいるが、可重の息である。何故又左衛門が金森法印の世話で細川家に仕官が出来たのかという疑問が有った。よくよく調べると「熊本県史料近世編第二」の附録「主要人物略歴」に、「父織田掃部は尾張國春日井の産、織田信長に仕」と書き込みがある。何かこの当たりの繋がりからだろうと推測されるが、織田掃部なる人物が特定できない。「掃部介」とか「掃部頭」とか、二三人の人物が見える。これからまったく前へ進まないでいる。ご存知の方が居られればご教示願いたい。