元和八年の記録に次のようなものがある。(熊本縣史料・近世編第二p377)
監物人数之覚
一、壱人ハ 自身
一、壱人ハ 母
一、壱人ハ 監物女房共
一、壱人ハ せかれ
一、貮人ハ 侍
一、八人ハ 小性
一、壱人ハ 臺所人
一、七人ハ 女房達
一、四人ハ はした
一、拾六人ハ 中間・小者
上下合四十貮人
外ニ馬壱疋
ここで言う監物とは、米田家二代目の是季(興季・監物)である。是季は藤孝・忠興に仕 慶長十二年退去、同十九年秀頼の招きにより大阪入城、元和八年春に息・是長(5歳)と共に帰参二千石、寛永二年加増四千五百石、家老職、寛永十一年加増三千五百石計壱万石、万治元年正月八日歿、七十三歳 殉死六人(肥後藩主要系図)
私が上記データーに興味があるのは、家禄二千石・家族4人に対して、38人の召使という大所帯であるということだ。二千石の家の適正な家臣・召使の数というものは如何なるものなのだろうか。その一例として興味深い。
監物人数之覚
一、壱人ハ 自身
一、壱人ハ 母
一、壱人ハ 監物女房共
一、壱人ハ せかれ
一、貮人ハ 侍
一、八人ハ 小性
一、壱人ハ 臺所人
一、七人ハ 女房達
一、四人ハ はした
一、拾六人ハ 中間・小者
上下合四十貮人
外ニ馬壱疋
ここで言う監物とは、米田家二代目の是季(興季・監物)である。是季は藤孝・忠興に仕 慶長十二年退去、同十九年秀頼の招きにより大阪入城、元和八年春に息・是長(5歳)と共に帰参二千石、寛永二年加増四千五百石、家老職、寛永十一年加増三千五百石計壱万石、万治元年正月八日歿、七十三歳 殉死六人(肥後藩主要系図)
私が上記データーに興味があるのは、家禄二千石・家族4人に対して、38人の召使という大所帯であるということだ。二千石の家の適正な家臣・召使の数というものは如何なるものなのだろうか。その一例として興味深い。