津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

寺本八左衛門殉死のわけ

2008-03-14 16:19:26 | 歴史
 寺本八左衛門直次という人がいる。細川忠利死去に際し殉死した。召出しは忠興代、元和六年である。 後藤又兵衛縁類とされるが綿孝輯録(巻十七)は次のように記している。「尾州之産にて播州にも居、大阪籠城五六年前大阪ニ越、佐々木兵庫と申者所に在、籠城の時ハ後藤又兵衛方ニ而度々武功有、元和六年豊前ニ而被召出候節、知行高望候様ニ被仰付候処、又兵衛倅(又一郎)御家ニ被召仕候間、是越可申様無之段申上五百石拝領仕、肥後入国後五百石御加増・・」
 寛永十六年三月十三日八左衛門が河村猪右衛門を打果たすという事件が起きた。「寺本八左衛門河村猪右衛門を打果候記録」によると、「寛永十五年十一月七日河村猪右衛門が島原一揆の際宇土郡郡浦にてキリシタンの小左衛門を捕らえた一件にて、寺本八左衛門に不服があるとして苦情を申し、十数回の往復の後三月十三日寺本方に押懸けてきたので致し方なく応戦して、河村を討ち果たしたというものである。当然吟味が行われているが、忠利の対応が面白い。寛永十六年卯月廿四日の三家老宛ての忠利書状に次のようにある。
 一、八左衛門へ之仕儀中々無是非にくき事・・せかれ腹を可申付候
 一、八左衛門儀ハ果不申満足申候
 一、せかれ果候わけとくと下々合点参候様ニ可申聞候 (要約・管理人)
同日付け四奉行宛書状にも次のようにある。
 一、寺本事不相果満足申候河村事にくきやつニて候委細年寄共迄申候

 「寺本はせいなる者なれハかまい申間敷・・」との忠利の裁断で、八左衛門はお構いなしという結果となった。53歳、鉄炮五十挺頭、千石の侍の殉死の訳は、案外このあたりが理由なのではないだろうか。
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悲運なり金左衛門

2008-03-14 09:56:48 | 歴史
 寛永十二年十二月三日付の、忠利書状(四奉行宛)の一項に次のような一文がある。
「尾藤金左衛門子息甚丞舟破損ニ而夫婦子ともニ相果候由無是非候」十月晦日、十一月二日之書状を読んでの返事であるから、事件は十月の事であろう。金左衛門は同家先祖附によると寛永十二年江戸で召出されている。「肥後藩主要系図」によると七月とあり、豊前へ下る船旅で上記の事故が起きた。金左衛門夫婦はかろうじて助かった。さて金左衛門の父親・尾藤左衛門佐知宣について『武辺咄聞書』第120話に記述がある。
        www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/buhen/buha116.htm
あることで秀吉の勘気を蒙り手討ちに遭ったとされるが、詳細は上記サイトを御覧いただくとしてここでは省略する。金左衛門に付いて次のように述べている。「其子勝助をは密に福嶋正則召抱、後は細川忠興に仕へ、尾藤金左衛門とて三千石取。嶋原落城の砌、本丸の塀下へ付者なし。鉄砲きひしかりけるに、紀州浪人平塚勘兵衛重近、只壱人抽て塀わきへ付居。尾藤金左衛門薄紅の大吹貫を指てかけ付、平塚と共に塀下へ付、面も不振塀へ乗所を、内より鑓長刀にてさん/\に突。其内に尾藤か口に突込、夫にてよはりたる所を又真中を鑓にて突ぬき、終に討死。」寛永十五年二月廿七日総攻撃の日の出来事であり、仕官からわずか二年余の事である。兄の死、続く父親の戦死をうけて、尾藤家は二男長四郎が家督これも金左衛門を名乗った。室は平野弥次右衛門長知女。尾藤家の遠祖は田原藤太秀郷という。
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