初代外記の父親は、大和郡山藩152、000石松平甲斐守(柳沢吉由)の家老、柳沢(本苗薮田氏)市正である。柳沢文庫のご教示によると【本名は藪田重守です。通称安房、後に市正と替えます。元禄元年柳澤家に仕え、正徳2年に柳沢姓を与えられ、享保10年隠居します。】とある。一代限り「柳沢」姓を頂戴したらしい。又、赤穂義士研究家のS氏のご教示によると、柳沢吉保に関する「源公実録」の編者だという。
そんな人の子孫が、何故細川家家臣となったのか?
嫡子薮田外記は、宝永五年妙應院(綱利)様御代の召出だと先祖附は記している。五十人扶持、座配は着座で後には御知行八百石とある。市正・外記親子は「幕政と細川藩政をつなぐ意味で重要な人物であったようです。」とは、柳沢文庫からのご教示である。
福留真紀著『徳川将軍側近の研究』(校倉書房2006)を読むと一挙解決と行きそうだ。本の到来が待ち遠しい。
先祖附を呼んでいるが、肥陽諸士鑑といささか食い違いがあるように思われる。又一つ頭の痛い問題の発生である。
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嫡子薮田外記は、宝永五年妙應院(綱利)様御代の召出だと先祖附は記している。五十人扶持、座配は着座で後には御知行八百石とある。市正・外記親子は「幕政と細川藩政をつなぐ意味で重要な人物であったようです。」とは、柳沢文庫からのご教示である。
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先祖附を呼んでいるが、肥陽諸士鑑といささか食い違いがあるように思われる。又一つ頭の痛い問題の発生である。