津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

つつじの床柱

2008-04-26 15:38:18 | 建築
 どちらのお茶室であったのか、まったく記憶がないが、京都の有名なお寺様のお茶室である事は間違いない。説明の方が「床柱はつつじです」と仰った。40年以上建築に携ってきたが、後にも先にも「つつじの床柱」など、お目にかかったことがない。大変失礼だが「何かの間違いじゃないか」と思ったりした。

 熊本市東部の閑静な住宅地の中に、宅地を駐車場としておられるところがある。舗装もなく10台ほどの車が入っており、かっては庭であったろう面影が、所々に残る庭木でうかがえる。入り口近い処に、2メートルほどの立ち木が在って、花を着け満開状態である。近寄ってよく見ると、なんと「つつじ」だ。思わず「オウ・・」と声を発してしまった。脇に伸びる枝木は一切ない。意図的に剪定されている事が分かる。それでも直木の部分は1.5mもない。あのお茶室のものは2.2~2.3mはゆうにある。何年経てばあのような大きさになるのだろうか。しかし可笑しな姿の「つつじ」ではある。桜の季節を過ぎて、熊本ではあちこちのつつじの名所から、満開のニュースが伝えられている。一度一木のつつじを御覧いただきたいと思うが、場所は秘密にしておこう。証拠の写真が必要だナ。改めて出かけなければ成らない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細川家家臣・藤掛(懸)氏

2008-04-26 15:18:26 | 歴史
 今日の熊日新聞の「言葉のゆりかご」に、田辺城を攻撃した藤掛土佐守の子孫の事が書かれている。ちょっとした偏屈者で「肥後モッコス」の極みのような人だ。
田辺城攻撃陣の中には、忠興の義弟・木下右大夫や、藤掛氏同様細川家家臣となった谷氏などがいる。石田三成の攻撃陣編成も「何だかなー」と思わせる、いい加減さが伺える。みんな細川陣に空砲を放ったり、情報を伝えたりしている。

 藤掛氏はその土佐の息・惣左衛門(蔵人・永勝)が召出された。  
    (1)物奉行 五百石 (於豊前小倉御侍帳)
    (2)御物奉行衆 五百石 (肥後御入国宿割帳)
    (3)御買物奉行衆 五百石 (真源院様御代御侍名附)
    (4)五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・蔵人
    (5)沢村宇右衛門組・御物奉行 五百石 (寛文四年六月・御侍帳)
                 江戸勤番ノ時ハ八木百石被下之
   * 藤掛蔵人内儀 百石(於豊前小倉御侍帳)(真源院様御代御侍免撫帳)
   * 藤懸蔵人内儀消息  細川家文書・御印之物より
       藤懸蔵人内儀へ米拾俵遣候間可相渡者也
          寛永三年十二月廿八日 tadatoxi(忠利印)
   * 藤懸蔵人女共消息 熊本縣史料近世編第二p273 三家老宛忠興書状
       藤懸蔵人女共ニ母儀逢度由申越候間國を出候儀者何様ニも出候へと
       申遣候間 蔵人所へ可被仰遣由申遣候蔵人次第ニ切手遣のほせられ
       候ハヽ舟可被申付候 謹言
         (寛永十四年)十月廿八日          (忠利)
   * 藤懸蔵人むすめ消息 細川家文書・御印之物より
       今度御暇被遣候御女房達衆之覚
       (前略)しほ 是者藤懸蔵人むすめにて候故蔵人所へ御かへし被成候
        右之衆何も御暇を被遣候、就夫当年之御切米無滞急度被相渡所々へ
        罷帰候衆は何も人を添其外海陸共ニ造作申付可遣旨被仰出候間、被
        得其意可被申付候、以上
          寛永拾八年六月廿二日 fosocawarocu(光尚印・六) 
                           林太郎四郎(花押)

 この様な色々の情報から類推すると、惣左衛門内室は江戸にいて、奥の仕事に携っていたのだろう。又娘は、光尚室彌々付きとして召し出されたのではないか。御暇の原因は当然、彌々の死去に伴うものだろう。幽齋の時代まで遡る、両家の縁である。

   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする