寛永十八年二月、表記の事につき忠利は三齋に宛て(宛名は中澤一楽)、家光が高本慶宅を召抱えようとした事について、喜びの書状を送っている。
一、慶安(慶宅)事、せかれの時迄可被成御存知候、今程 上様迄御耳ニ入、可被 召出と、江戸に
ても上意にて御座候キ、今之世之外科一人二人之内にて御座候、是へ見廻ニ被下候事幸、我等
仕合と満足仕事候(略)
その高本慶宅について「大日本近世史料・細川家史料」の人名一覧は、次のように紹介している。
【細川家臣。医師。慶宅の父李宗閑は、朝鮮の役に南條元宅に捕えられ、豊前に移る。慶宅は忠利に召出され高本姓を拝領、十一歳にて医師を命ぜられ、十三歳の時知行百石。廿三歳で嶋原出陣、鉄炮傷をうけ、歸陣後二百石加増、側医を命ぜらる。寛文五年三月駿河島田宿にて歿。(先祖附)】
その慶宅を初代とする高本家では、五代目高本紫溟が藩校時習館二代目教授となった。
一、慶安(慶宅)事、せかれの時迄可被成御存知候、今程 上様迄御耳ニ入、可被 召出と、江戸に
ても上意にて御座候キ、今之世之外科一人二人之内にて御座候、是へ見廻ニ被下候事幸、我等
仕合と満足仕事候(略)
その高本慶宅について「大日本近世史料・細川家史料」の人名一覧は、次のように紹介している。
【細川家臣。医師。慶宅の父李宗閑は、朝鮮の役に南條元宅に捕えられ、豊前に移る。慶宅は忠利に召出され高本姓を拝領、十一歳にて医師を命ぜられ、十三歳の時知行百石。廿三歳で嶋原出陣、鉄炮傷をうけ、歸陣後二百石加増、側医を命ぜらる。寛文五年三月駿河島田宿にて歿。(先祖附)】
その慶宅を初代とする高本家では、五代目高本紫溟が藩校時習館二代目教授となった。