「寛文元年以来病気乱心ニ而知行被差上又者依願御暇被遣候面々名付之覚」を見ると、延宝三年九月十六日「煩ニ付知行被差上(候)」として米田甚内(是員)殿、延宝七年十一月二日「御役儀御断ニ付知行被差上候」と米田助右衛門殿とある。二人は兄弟である。米田家四代是長監物の次弟が助右衛門、末弟が甚内だが共に江戸証人を勤めた。又夫々共家老職を勤めたが、助右衛門は隠居無嗣断絶。甚内は先に記す如く病を得て二十九歳で死去こちらも無嗣断絶した。米田家は四代是長女吟が忠利末子元知に嫁いだが、これも陽明学徒追放に際し、藩主綱利に対し諫言これが災いして永蟄居となる。寛文九年十月十一日「煩ニ付知行被差上候、五千石・長岡左近(南條元知)殿」と「覚」は記録している。その嫡子である是庸が命により、外祖父養子になったのは延宝五年の事である。ちなみに四代是長室は南條元信女伊代である。米田家と南條家の深いつながりがある。
寛文九年(1669) 長岡元知(是長女婿)永蟄居
延宝三年(1675) 米田甚内(是員)死去(29歳)
延宝五年(1677) 長岡是庸、命により米田是長の養子となる。
延宝七年(1679) 米田是正隠居
延宝八年(1680) 米田是長死去(63歳)
米田家の波乱の延宝期である。
寛文九年(1669) 長岡元知(是長女婿)永蟄居
延宝三年(1675) 米田甚内(是員)死去(29歳)
延宝五年(1677) 長岡是庸、命により米田是長の養子となる。
延宝七年(1679) 米田是正隠居
延宝八年(1680) 米田是長死去(63歳)
米田家の波乱の延宝期である。