昨日、川口恭子先生の「細川家家臣略歴」をぱらぱらめくっていたら、薮田氏なるお宅が目に入った。中学校の同級生に同姓の女の子(当時・・)がいた事を思い出した。よく見ると家祖に柳沢市正とある。ふと細川家と柳沢家の親密振りを思い出して、もしかしたら一族の人ではないかと思いぐぐって見た。なんとなんと「ぴったしカンカン」である。大和郡山の財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会(通称・柳沢文庫)のHPに導かれた。城下町の地図の中に「柳沢市正」の名前がみえる。ほぼ確信となって、同文庫にお尋ねのメールを入れた。今日ご丁寧なご返事をいただき、まさしく同一人に間違いない旨のご連絡をいただいた。家老職で柳沢姓を頂戴した薮田氏だという。参考図書をお教えいただき、幕府又は柳沢家との掛け橋として薮田氏の活躍があったことが述べられている旨ご教示いただいた。『徳川将軍側近の研究』これが熊本県立図書館に・・・ない。明日はこの書籍の在処を尋ね、見つからない時には「日本の古本屋」に注文しようと思っている。どういう事実が明らかになるのか、興味が尽きない。津々堂はいささか興奮気味である。
天気もいいし今日こそはと、「桜山神社」に出かける。ご存知「神風連」の志士を祀るお社である。口笛吹いて自転車こいで出かけたのは良いが、肝心の記念館が休館日だ。「またやってしまった」が、志士の皆さんに「二礼二拍手一礼」のご挨拶をし、M氏・K氏・Y氏などの碑のまえでしばし合掌。なんとM氏とY氏はお隣同士であった。満開の桜を満喫した後、一走りして小笠原少斎一族のお墓に詣で、その後慈眼庵跡にある細川刑部一族のお墓のお参り、上月家・堀部家・浅井家・牧家等々のお墓にも合掌。当たりには刑部家の物と思われる「細川家」なる新しい寄墓が作られている。浅井家と牧家のお墓が隣り合わせにあるのには正直驚いてしまった。浅井長政の遺児万菊丸は、牧家の合力を得たと伝えられている。そして浅井家の墓誌には長政以来の系図も添えられていた。
泰勝寺は本当に久しぶり、四つ御廟(藤孝公夫妻・忠興公夫妻)のお墓に詣でた後、10代、11代、13・14・15代のお墓その他に合掌。10代以降奥方のお墓はない。そして3代から9代までが何故妙解寺なのだろうかと考えた。そうだ・・・10代以降の藩主は宇土細川家の血が濃く、藤孝公・忠興公の血は引いているものの、忠利公以来の血は引いていない(9代治年で絶えた)。「これだ」と一人合点したところだが、真相は・・・分からない。
そしてお茶室「仰松軒」「鎖の間」が改修工事中。大掛かりな工事のようで、屋根の萱葺の葺き替えの真っ最中。腐れた柱などは継木などしてペーパー掛けなどをほどこして色合わせをするのだという。左官も同様の工事がなされるらしい。四月末日完成だそうな。
休憩中の職人さんにインタビューしての情報。桜は満開入園者は私一人、しばし休憩してお暇する。珍しく細川家の門が開いていた。
泰勝寺は本当に久しぶり、四つ御廟(藤孝公夫妻・忠興公夫妻)のお墓に詣でた後、10代、11代、13・14・15代のお墓その他に合掌。10代以降奥方のお墓はない。そして3代から9代までが何故妙解寺なのだろうかと考えた。そうだ・・・10代以降の藩主は宇土細川家の血が濃く、藤孝公・忠興公の血は引いているものの、忠利公以来の血は引いていない(9代治年で絶えた)。「これだ」と一人合点したところだが、真相は・・・分からない。
そしてお茶室「仰松軒」「鎖の間」が改修工事中。大掛かりな工事のようで、屋根の萱葺の葺き替えの真っ最中。腐れた柱などは継木などしてペーパー掛けなどをほどこして色合わせをするのだという。左官も同様の工事がなされるらしい。四月末日完成だそうな。
休憩中の職人さんにインタビューしての情報。桜は満開入園者は私一人、しばし休憩してお暇する。珍しく細川家の門が開いていた。
大奉行・堀平太左衛門、彼を推挙した竹原勘十郎は共に、片岡朱陵の門下である。平太左衛門の下、夫々奉行として改革に尽力した四人の片岡朱陵門下がいる。志水治兵衛(才助)・村山九郎次郎・蒲池喜左衛門・吉海市之允である。
■片岡朱陵 名は惟良、古城山人。字は子騏、朱陵と号す。善次郎と称す。
本氏平尾、後片岡と改む。隠士前原丈軒に学び自ら薪水の労を執れり。
業成りて郷里に教授す。堀老以下諸士就て正す、重賢挙げて待讀となす、
宝暦の改正役所の條目、章程等皆其手に成り翼賛甚多しと云う。
朱陵人と為り?儻不覇、其学応用を主とし、章句箋疏に拘らず、識鑑ありて
人材を成育するに長ず、人を教ふる或は一書を専修せしめ、必しも其書の
純駁を論ぜず、後皆其器を成す。堀、竹原、志水、蒲池、吉海、村山等の
如き皆其門に出で政務に従事し、宝暦改正の功績を顕せり。
■志水才助 宝暦六年十月~宝暦七年八月 奉行副役
宝暦七年八月~安永二年五月 奉行
(安永二年五日 江戸奥向にて賜酒、乱酔大不敬にて免職)
安永三年十二月~安永八年六月 奉行(再)
安永八年六月~寛政四年七月 大奉行・中老ヨリ兼
天明四年六月~寛政五年二月 中老
寛政五年二月~寛政五年九月(病死)家老
ちなみに才助は、兄金右衛門の養子であるが、金右衛門の室は堀平太左衛門の姉である。
■村山九郎次郎(町市郎右衛門・弟 町氏項でも紹介)
宝暦五年五月~宝暦七年十二月 奉行
奉行職にて江戸行使中乱心知行没収
■蒲池喜左衛門 宝暦四年十一月~安永六年二月 奉行
■吉海市之允 宝暦十二年七月~安永二年一月 奉行副役
安永二年一月~寛政三年二月(致仕) 奉行
■片岡朱陵 名は惟良、古城山人。字は子騏、朱陵と号す。善次郎と称す。
本氏平尾、後片岡と改む。隠士前原丈軒に学び自ら薪水の労を執れり。
業成りて郷里に教授す。堀老以下諸士就て正す、重賢挙げて待讀となす、
宝暦の改正役所の條目、章程等皆其手に成り翼賛甚多しと云う。
朱陵人と為り?儻不覇、其学応用を主とし、章句箋疏に拘らず、識鑑ありて
人材を成育するに長ず、人を教ふる或は一書を専修せしめ、必しも其書の
純駁を論ぜず、後皆其器を成す。堀、竹原、志水、蒲池、吉海、村山等の
如き皆其門に出で政務に従事し、宝暦改正の功績を顕せり。
■志水才助 宝暦六年十月~宝暦七年八月 奉行副役
宝暦七年八月~安永二年五月 奉行
(安永二年五日 江戸奥向にて賜酒、乱酔大不敬にて免職)
安永三年十二月~安永八年六月 奉行(再)
安永八年六月~寛政四年七月 大奉行・中老ヨリ兼
天明四年六月~寛政五年二月 中老
寛政五年二月~寛政五年九月(病死)家老
ちなみに才助は、兄金右衛門の養子であるが、金右衛門の室は堀平太左衛門の姉である。
■村山九郎次郎(町市郎右衛門・弟 町氏項でも紹介)
宝暦五年五月~宝暦七年十二月 奉行
奉行職にて江戸行使中乱心知行没収
■蒲池喜左衛門 宝暦四年十一月~安永六年二月 奉行
■吉海市之允 宝暦十二年七月~安永二年一月 奉行副役
安永二年一月~寛政三年二月(致仕) 奉行