津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・河方氏

2008-04-25 16:19:29 | 歴史
 河方氏の祖は松下民部少輔述久、綿孝輯録は「加茂の神主の弟也、述久は従五位下、禁裏に勤居たり、鞠歌の御伽として、幽齋君御懇に有之、内々御和睦をも御取持仕候段は、先祖附にも段々書加来候、後に五百石にて御家に来」とする。時慶記にもその消息が見える。(慶長5年、2/5、3/19、3/22、8/25 同7年7/9、10/19 又幽齋より松下民部への御歌が残されている(盤桓随筆・巻42所収)
 其子松下掃部助は河方安右衛門と改「曽我丹波守殿妹を忠興君御養女に被成、被嫁之、其後代々御奉公相勤」と綿考輯録(巻五)は紹介する。
 二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・河方安右衛門
 原城にて武功被賞 御加増五百石 十五年七月比カ (綿考輯録・巻五十)

御旗本・曾我家とは、細川家は代々大変親しい関係を持ってきた。上記丹波守とは曾我古祐、【曾我尚祐の子。喜太郎、又左衛門。慶長六年より秀忠に仕ふ。のち書院番、二百石。大坂役の後軍令違反により閉門。のち赦免。寛永三年相續(千石)。寛永八年二月十二日使番。九年四月八日目付。同年十一月廿七日布衣を許さる。十年十二月千石加増。十一年七月廿九日大坂町奉行。閏七月朔日加増してすべて三千石。十五年十二月従五位下丹波守。萬治元年三月十九日致仕、四月廿一日大坂に於て歿。年七三。】(大日本近世史料・細川家史料より)その古祐の妹を忠興養女にしての嫁娶りであるから、特別なものを感じざるを得ないがが・・さて?。
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地震の間

2008-04-25 08:21:40 | 歴史
 今朝6時前地震で目を覚ました。一瞬物が落ちてこないかと身構えてしまった。たいした揺れではない、震度2位のものだろう。熊本市内には東西に地震構造帯が走っている。最近は阿蘇山が噴煙を上げ、火口では赤熱化現象が見られる。あまり気持ちの良い状況ではない。

 某家の先祖附に、ガラシャ夫人の最期の状況を記したものが有る。鴨居に火薬を仕掛けて火を放ったとされる。屋敷全体を火で包み、遺骸を覆ってしまうには非常に合理的な発想だ。細川家には「地震の間」というものがあったが、これがそうなのかもしれない。寛永期小倉城内で、「地震の間」の普請が行われている様子が、「日帳」に度々記されている。「細川家の覚悟」のほどが伺える話しだが、今般竣工を見た「本丸大広間」や「花畑御屋敷」にも、同様の機能を持たせた部屋があったのだろうか。
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