河方氏の祖は松下民部少輔述久、綿孝輯録は「加茂の神主の弟也、述久は従五位下、禁裏に勤居たり、鞠歌の御伽として、幽齋君御懇に有之、内々御和睦をも御取持仕候段は、先祖附にも段々書加来候、後に五百石にて御家に来」とする。時慶記にもその消息が見える。(慶長5年、2/5、3/19、3/22、8/25 同7年7/9、10/19 又幽齋より松下民部への御歌が残されている(盤桓随筆・巻42所収)
其子松下掃部助は河方安右衛門と改「曽我丹波守殿妹を忠興君御養女に被成、被嫁之、其後代々御奉公相勤」と綿考輯録(巻五)は紹介する。
二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・河方安右衛門
原城にて武功被賞 御加増五百石 十五年七月比カ (綿考輯録・巻五十)
御旗本・曾我家とは、細川家は代々大変親しい関係を持ってきた。上記丹波守とは曾我古祐、【曾我尚祐の子。喜太郎、又左衛門。慶長六年より秀忠に仕ふ。のち書院番、二百石。大坂役の後軍令違反により閉門。のち赦免。寛永三年相續(千石)。寛永八年二月十二日使番。九年四月八日目付。同年十一月廿七日布衣を許さる。十年十二月千石加増。十一年七月廿九日大坂町奉行。閏七月朔日加増してすべて三千石。十五年十二月従五位下丹波守。萬治元年三月十九日致仕、四月廿一日大坂に於て歿。年七三。】(大日本近世史料・細川家史料より)その古祐の妹を忠興養女にしての嫁娶りであるから、特別なものを感じざるを得ないがが・・さて?。
其子松下掃部助は河方安右衛門と改「曽我丹波守殿妹を忠興君御養女に被成、被嫁之、其後代々御奉公相勤」と綿考輯録(巻五)は紹介する。
二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・河方安右衛門
原城にて武功被賞 御加増五百石 十五年七月比カ (綿考輯録・巻五十)
御旗本・曾我家とは、細川家は代々大変親しい関係を持ってきた。上記丹波守とは曾我古祐、【曾我尚祐の子。喜太郎、又左衛門。慶長六年より秀忠に仕ふ。のち書院番、二百石。大坂役の後軍令違反により閉門。のち赦免。寛永三年相續(千石)。寛永八年二月十二日使番。九年四月八日目付。同年十一月廿七日布衣を許さる。十年十二月千石加増。十一年七月廿九日大坂町奉行。閏七月朔日加増してすべて三千石。十五年十二月従五位下丹波守。萬治元年三月十九日致仕、四月廿一日大坂に於て歿。年七三。】(大日本近世史料・細川家史料より)その古祐の妹を忠興養女にしての嫁娶りであるから、特別なものを感じざるを得ないがが・・さて?。