津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

光尚の再婚話・・書状-4

2010-09-01 07:32:17 | 歴史
 「光尚の再婚話」については、2008/07/12~14にかけて書いているが、実に2年以上前の話である。正室彌々の死後再婚話が持ち上がった。小倉の小笠原家の息女と古八條宮の姫君である。話は複雑な様相を呈したが、天草嶋原ノ乱の勃発や忠利の死などもあって立ち消えに成ってしまったようだ。熊本縣史料・近世偏第一(部分御舊記一)p301に該当史料が散見されたのでご紹介する。(大日本近世史料・細川家史料にも掲載されていた)

          十一月六日別紙之御状具令拝見候肥後守縁邊之儀ニ付て古
          八條様之姫君をと思召之通無冥加忝儀共御座候併最前貴殿
          へも如申候心安親類中之縁邊に仕度由讃岐殿へ申入置候其
          段首尾相讃岐殿より貴殿へ被申入候と見へ申候但公方様上意
          ニ而被仰下候へは不任心儀に候間其段は 上意次第と存候条
          其御心得候而可給候少も/\姫宮様をいなと存申上わけニ而
          ハ無御座候先以忝御座候可然候儀御取成所仰候恐々謹言
          (寛永十四年)十一月十三日
                   生嶋玄蕃殿 
                        御宿所

 ここでは「心安親類中之縁邊に仕度」(小笠原家息女のこと)という、忠利の素直な気持ちが吐露されている。ここに登場する「生嶋玄蕃」とは、「生嶋秀成。八條宮(桂宮)諸大夫。慶長七年姫路に生る。寛永十一年三月十二日従五位下。同年四月廿二日玄蕃頭。寛文元年十二月廿五日従四位上。二年十月廿九日歿。年五八。(地下家伝)」である。文中にある「古八條宮」というのが誰なのか、生嶋玄蕃は智忠親王の諸太夫とされるから智仁親王のことであろう。八條宮(桂宮)智仁親王、智忠親王父子は桂離宮を作られた方として有名だが、我々熊本人にとっては「古今伝授之間」を通じて、智仁親王が幽齋公から古今伝授を受けられた方であることで親しみを感じるのである。その八條宮家と成らずとはいえ、このような話があったことは凄い話ではある。
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