先に綱利の側室・安住院について書いた。先祖附を読むと遠祖は仁田四郎だとある。
【仁田氏館/城郭図鑑】
joe.ifdef.jp/005shizuoka/003nitta/nitta.html
安住院の父親である初代・市左衛門が「右之御縁ニ付而天和二年妙應院様御代御家ニ被召寄」られた。
第一子・伊津(清水勝貞室-21歳没)が生まれたのが天和二年十月廿五日(熊本・花畑館)だから、丁度その時期である。正室はこの時期すでに亡くなられているが、熊本での出産ということが解せないでいる。貞享四年に嫡男・與一郎(14歳死去)、元禄二年に次男千次郎吉利を生んでいるが、安住院は元禄十五年に亡くなった。
次男・吉利は宝永三年(1706)四月、18歳で江戸で亡くなった。
仁田家の菩提寺である、熊本・高麗門の妙立寺の記録によると、ある時期吉利が妙立寺を参拝のために訪れている。元禄十五年(1702)以降の約四年ほどの間の事だが、残念ながらその時期は記載されていない。玄関や一室を建て増すよう指示をしていったという。正史では伺えぬことである。
【仁田氏館/城郭図鑑】
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安住院の父親である初代・市左衛門が「右之御縁ニ付而天和二年妙應院様御代御家ニ被召寄」られた。
第一子・伊津(清水勝貞室-21歳没)が生まれたのが天和二年十月廿五日(熊本・花畑館)だから、丁度その時期である。正室はこの時期すでに亡くなられているが、熊本での出産ということが解せないでいる。貞享四年に嫡男・與一郎(14歳死去)、元禄二年に次男千次郎吉利を生んでいるが、安住院は元禄十五年に亡くなった。
次男・吉利は宝永三年(1706)四月、18歳で江戸で亡くなった。
仁田家の菩提寺である、熊本・高麗門の妙立寺の記録によると、ある時期吉利が妙立寺を参拝のために訪れている。元禄十五年(1702)以降の約四年ほどの間の事だが、残念ながらその時期は記載されていない。玄関や一室を建て増すよう指示をしていったという。正史では伺えぬことである。