もう7~8年前の話だが、某有名大学にお勤めのドクターがご先祖探しをしておられた。
ご先祖様も医師であったらしく、○○寺支配医師とあってお名前もはっきりしている。処がいまだにこの方の史料に遭遇できず悔しい思いをしている。○○寺支配を手がかりにしたのだが、○○寺が熊本に三軒程あり特定も出来ない有様である。
「細川家家臣略歴」によると、医家は63家に及んでいる。松本寿三郎氏(崇城大教授)が、「年報・熊本近代史」で発表された「熊本藩における医師}(一~三)においては、例えば宝暦期の医師として、「御医師」12名、「外様御医師」50名、「御郡医師」11名、「その他」とされている。この「その他」は「御国中寺社御家人名附」に収録されていたものだそうだが、数え上げると139名に及んでいる。
いわゆる士席にあたるのが「御医師」「外様御医師」「御郡医師」であり、合計73名であるが、文政期では79名(文政三年正月改・士席以上名録)とされるから、数の上では余り動きがないことが判る。これらの医師が藩主・一門・家士の診療に当たった。
■士席医師
士席の医師は「御匙御医師」を最高位とする。君侯の診療にあたるいわゆる侍医である。御用人支配。
「御次御医師」は次の間に控え時には君侯の診療にもあたった。又君侯夫人や奥の婦女子の診察も御次医師が行った。御用人支配下に入る。
「外様御医師」は前記二者が奥向きであるのに対し、外向きの任務であるためこう呼ばれる。外様御医師觸役支配に入り、その職務は以下のごとくである。
・御花畑泊御番並に馳付受持
・野方御供
・御連枝様御供
・御手当受持
・調練出役
・武藝並に大砲打方御覧の節詰方
・御花畑御礼の節晝詰
・両御祭禮御桟敷詰
・両御寺神護寺往生院詰方
・公儀御役人衆止宿の節詰方
・御刑方出役
・(再春館勤務)
以上が知行取、以下次回
ご先祖様も医師であったらしく、○○寺支配医師とあってお名前もはっきりしている。処がいまだにこの方の史料に遭遇できず悔しい思いをしている。○○寺支配を手がかりにしたのだが、○○寺が熊本に三軒程あり特定も出来ない有様である。
「細川家家臣略歴」によると、医家は63家に及んでいる。松本寿三郎氏(崇城大教授)が、「年報・熊本近代史」で発表された「熊本藩における医師}(一~三)においては、例えば宝暦期の医師として、「御医師」12名、「外様御医師」50名、「御郡医師」11名、「その他」とされている。この「その他」は「御国中寺社御家人名附」に収録されていたものだそうだが、数え上げると139名に及んでいる。
いわゆる士席にあたるのが「御医師」「外様御医師」「御郡医師」であり、合計73名であるが、文政期では79名(文政三年正月改・士席以上名録)とされるから、数の上では余り動きがないことが判る。これらの医師が藩主・一門・家士の診療に当たった。
■士席医師
士席の医師は「御匙御医師」を最高位とする。君侯の診療にあたるいわゆる侍医である。御用人支配。
「御次御医師」は次の間に控え時には君侯の診療にもあたった。又君侯夫人や奥の婦女子の診察も御次医師が行った。御用人支配下に入る。
「外様御医師」は前記二者が奥向きであるのに対し、外向きの任務であるためこう呼ばれる。外様御医師觸役支配に入り、その職務は以下のごとくである。
・御花畑泊御番並に馳付受持
・野方御供
・御連枝様御供
・御手当受持
・調練出役
・武藝並に大砲打方御覧の節詰方
・御花畑御礼の節晝詰
・両御祭禮御桟敷詰
・両御寺神護寺往生院詰方
・公儀御役人衆止宿の節詰方
・御刑方出役
・(再春館勤務)
以上が知行取、以下次回