津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

お医者様 (一)

2010-09-25 20:27:37 | 歴史
 もう7~8年前の話だが、某有名大学にお勤めのドクターがご先祖探しをしておられた。
ご先祖様も医師であったらしく、○○寺支配医師とあってお名前もはっきりしている。処がいまだにこの方の史料に遭遇できず悔しい思いをしている。○○寺支配を手がかりにしたのだが、○○寺が熊本に三軒程あり特定も出来ない有様である。

 「細川家家臣略歴」によると、医家は63家に及んでいる。松本寿三郎氏(崇城大教授)が、「年報・熊本近代史」で発表された「熊本藩における医師}(一~三)においては、例えば宝暦期の医師として、「御医師」12名、「外様御医師」50名、「御郡医師」11名、「その他」とされている。この「その他」は「御国中寺社御家人名附」に収録されていたものだそうだが、数え上げると139名に及んでいる。
いわゆる士席にあたるのが「御医師」「外様御医師」「御郡医師」であり、合計73名であるが、文政期では79名(文政三年正月改・士席以上名録)とされるから、数の上では余り動きがないことが判る。これらの医師が藩主・一門・家士の診療に当たった。
 
士席医師 
士席の医師は「御匙御医師」を最高位とする。君侯の診療にあたるいわゆる侍医である。御用人支配。
「御次御医師」は次の間に控え時には君侯の診療にもあたった。又君侯夫人や奥の婦女子の診察も御次医師が行った。御用人支配下に入る。
「外様御医師」は前記二者が奥向きであるのに対し、外向きの任務であるためこう呼ばれる。外様御医師觸役支配に入り、その職務は以下のごとくである。
  ・御花畑泊御番並に馳付受持
  ・野方御供
  ・御連枝様御供
  ・御手当受持
  ・調練出役
  ・武藝並に大砲打方御覧の節詰方
  ・御花畑御礼の節晝詰
  ・両御祭禮御桟敷詰
  ・両御寺神護寺往生院詰方
  ・公儀御役人衆止宿の節詰方
  ・御刑方出役
  ・(再春館勤務)
                 以上が知行取、以下次回
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熊本近世史年報・目録--(4)

2010-09-25 09:20:07 | 歴史
■昭和62年度(昭和63年10月)
 ・「魚山叢書」所収の乙護法構式に関連して     佐藤征子
 ・唐津藩寺沢浪人の再仕官     鶴田倉造
 ・文政八年以前の地推について     林田巌
 ・商品流通と球磨川     右田幸介

■昭和63年度(平成元年12月)
 ・肥後八代の名産「搗剥」について     蓑田勝彦
 ・「外来王」小考 -草部諺記」にみる     佐藤征子
 ・天草島原の乱当初 肥後筑後の様相断片     鶴田倉造
 ・「地推」史料紹介(その二)     林田巌

■平成元・二年度合併号(平成三年七月)
 ・岩永三五郎と雄亀滝(おけたき)橋について     蓑田勝彦
 ・月田蒙斎について     蓑田勝彦
 ・細川家家臣の南蛮字印について     松本寿三郎

■平成3年度(平成4年12月)
 ・「史料紹介」久住手永耕作気候目安書     花岡興輝
 ・「史料紹介」細川氏の参勤交代と豊後国関宮の神馬牧     蓑田勝彦
 ・熊本藩におけるいろいろな宛行状     松本寿三郎
 ・「資料」六角形の南蛮字印ほか        同上

■平成4・5年度合併号(平成6年6月)
 ・荻昌国「御免方大意」補     水野公寿
 ・八代御城附名簿     松本寿三郎
 ・細川興孝と刑部家の成立の事情     花岡興輝
 ・「資料紹介」幻の目鑑橋 -馬見原三河橋(蘇陽町)について-     
                     蓑田勝彦
 ・宇土郡松山手永大見村年禰宮の釣鐘紛失事件     右山幸介
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