有吉家文書「年中行事抜粋」御着座之式 によると、豊後路を帰国する参勤の一行は、ご府内に入ると龍田口構から観音坂・慶宅坂を経て、花畑御屋敷に至ったことが判る。それぞれの場所からご注進が走った。
観音坂とは現在の熊本拘置所横にある坂だが、お駕籠は横にしなければ登れそうにもない急坂である。登りきると京町鳥町、目の前に熊本城がある。慶宅坂は法華坂から桜の馬場に至る坂で、もう花畑御屋敷は目と鼻の先の眼下にある。
熊本市史によると、豊前・豊後街道は法華坂下を基点とし、二の丸(田中左兵衛ほか有力家臣の屋敷がある)を通り二の丸御門を出て、百間石垣下を通り京町口に至り、豊前・豊後へと進んだらしい。しかし熊本城下を通過する大名は、法華坂脇から藤崎宮(現藤崎台球場)前に迂回して京町へ進んだらしい。薩摩藩などは大いに迷惑し、足早に城下を離れたという。
つまり御行列は、御門から城内に入ることなく二の丸を通り抜け法華坂へでて慶宅坂へ至ったということになる。御行列が慶宅坂に至ると最後の注進があり、御一門・家老職などが玄関前に御迎えに出る。慶宅坂下には広い勢屯があり坪井川の橋を渡ると花畑御屋敷である。
且つては屋敷割がなされていた二の丸は、現在は広大な二の丸公園となり往時の道筋は古図にたよるしかない。何方か詳しい方のレクチャーを受けて、一度そのルートを歩いてみようと思っている。
観音坂とは現在の熊本拘置所横にある坂だが、お駕籠は横にしなければ登れそうにもない急坂である。登りきると京町鳥町、目の前に熊本城がある。慶宅坂は法華坂から桜の馬場に至る坂で、もう花畑御屋敷は目と鼻の先の眼下にある。
熊本市史によると、豊前・豊後街道は法華坂下を基点とし、二の丸(田中左兵衛ほか有力家臣の屋敷がある)を通り二の丸御門を出て、百間石垣下を通り京町口に至り、豊前・豊後へと進んだらしい。しかし熊本城下を通過する大名は、法華坂脇から藤崎宮(現藤崎台球場)前に迂回して京町へ進んだらしい。薩摩藩などは大いに迷惑し、足早に城下を離れたという。
つまり御行列は、御門から城内に入ることなく二の丸を通り抜け法華坂へでて慶宅坂へ至ったということになる。御行列が慶宅坂に至ると最後の注進があり、御一門・家老職などが玄関前に御迎えに出る。慶宅坂下には広い勢屯があり坪井川の橋を渡ると花畑御屋敷である。
且つては屋敷割がなされていた二の丸は、現在は広大な二の丸公園となり往時の道筋は古図にたよるしかない。何方か詳しい方のレクチャーを受けて、一度そのルートを歩いてみようと思っている。