津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

近世都市熊本の社会

2010-09-21 12:13:35 | 書籍・読書
西唐人町に残る見図帳によって、町家の様子、家内人数、家族、屋号、家族の年齢構成、商売、町役負担、町人生活を具体的に描く。掛屋敷を抱え影踏御免の特権を持ち、別当や丁頭となる富裕な町人と、裏屋住まいの借家人、手加勢で渡世する者、出商いで影踏みに間に合わぬ者、窮民救済を受ける者、さまざまな町人の姿がある。藩当局はどのように町方法令を整備し、衣服規制、諸役賦課を実施したか、いかなる形で民意を取り上げたか。町中から差し出された諸願書を史料として紹介、松雲院町・慈徳庵町の成立、本・新坪井町の再開発にふれる。

近世都市熊本の社会
本田 秀人
熊本出版文化会館

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櫨方(はぜかた)門

2010-09-21 08:28:33 | 徒然
 熊本城内の加藤神社がある場所は、かって櫨方と呼ばれ櫨を取り扱う役所があったところである。ここにあった門が「櫨方門」でこれが移設されて、現在の場所行幸坂一番目の入場門になった。「ここに櫨方があった」と思い込んで居られる方があるが、これは間違いである。この櫨方門を入ると「竹の丸」という場所が広がる。この場所に「預人」を入れる「囲屋」があった・・・・と私はずっと思い込んでいた。

 細川家家臣に小栗家があるが、家祖(?)は越後松平家の重臣・小栗兵庫である。いわゆる越後騒動の際、兵庫は遠島を申し付けられ(死去)、幼い三人の子供(8・6・4歳)も連座の罪で細川家に預けられた。以来四十年余熊本城内の「囲屋」で幽居生活を送った。

 連休の間古い熊本城の地図やら関係する資料を眺めてすごした。櫨方があった場所がその「囲屋」があった場所だという資料を発見。昨晩は「小栗家」に関する資料を取り出して再確認したのだが、場所を特定できる文言が出てこない。是には参ってしまった。(ブログにも何度かその旨を書いている)

 (財)熊本城顕彰会が発行する会誌「熊本城」の最新号(復刻第79号-8月22日)を見ていたら、まさしくこの場所に「囲屋」と思われる建物が存在することが紹介されている。
そしてこれが熊本城城郭模型にも作りこまれていた。記事「熊本城の歴史と探訪」は熊本城研究の第一人者といわれる富田紘一氏によるものだが、今回で十七回に及んでいる。氏も、「『御預人』を『被召置』れたものであったのだろう」と記し断定はされていないのだが・・
しかしながら櫨方門を入った広い敷地の中に、周囲を塀で囲まれた建物は何とも異様ではある。

 「櫨方門の奥にある建物」を現在の櫨方門と勘違いして「竹之丸」と思い込んでしまったのか・・・頭の痛い重い課題である。
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