一条家と細川家の関係を見ると、天皇家・徳川家と大変近い関係にある。
韶邦の家記を見ると、「明治五年六月五日大宮皇后宮臨驛アリテ品々ヲ賜フ」とある。
邰姫であるが初名は峯姫であり、養女ではあるが孫娘がまた峯姫を名乗り細川家に入輿した。一条家は代々公武合体派の公卿としてしられる。細川家の一時期の公武合体に向けての動きは、徳川家・一条家の動きに呼応したものではなかったのかとさえ思える。
忠香の生母はまさしく邰姫であり、昭憲皇太后を経て大正・昭和・今上天皇へとつながっていると考えられる。恐れ多くも賢きあたりのことを詮索するのは止める事にする。
また現在の徳川家-細川家の関係を考えるとき、家定・慶喜につながるこの系図をみると納得がいくことではある。(徳川家現当主夫人は護立公の孫である)
関白→准三后 +---実通 18歳で死去・弟忠香を養子となす
一条忠良 | 明治天皇
∥----+---忠香 ∥
細川齊茲---邰姫 | ∥---------------+---美子(昭憲皇太后)
| 順子女王 |
久我通名 | +=== 峯
∥====+---久我建通 | ∥
細川治年---就姫 | | 細川韶邦
+---秀子(継室澄心院) |
| ∥ +=== 美智子
| 徳川家定 ∥
| 徳川慶喜
+---知
|
+---通子
|
+---崇子
韶邦の家記を見ると、「明治五年六月五日大宮皇后宮臨驛アリテ品々ヲ賜フ」とある。
邰姫であるが初名は峯姫であり、養女ではあるが孫娘がまた峯姫を名乗り細川家に入輿した。一条家は代々公武合体派の公卿としてしられる。細川家の一時期の公武合体に向けての動きは、徳川家・一条家の動きに呼応したものではなかったのかとさえ思える。
忠香の生母はまさしく邰姫であり、昭憲皇太后を経て大正・昭和・今上天皇へとつながっていると考えられる。恐れ多くも賢きあたりのことを詮索するのは止める事にする。
また現在の徳川家-細川家の関係を考えるとき、家定・慶喜につながるこの系図をみると納得がいくことではある。(徳川家現当主夫人は護立公の孫である)
関白→准三后 +---実通 18歳で死去・弟忠香を養子となす
一条忠良 | 明治天皇
∥----+---忠香 ∥
細川齊茲---邰姫 | ∥---------------+---美子(昭憲皇太后)
| 順子女王 |
久我通名 | +=== 峯
∥====+---久我建通 | ∥
細川治年---就姫 | | 細川韶邦
+---秀子(継室澄心院) |
| ∥ +=== 美智子
| 徳川家定 ∥
| 徳川慶喜
+---知
|
+---通子
|
+---崇子