ぴえーるさんが3月7日のご自分のブログで細川興秋(忠興二男)について書かれていた。http://d.hatena.ne.jp/muxia/
改めて戸田敏夫著「戦国細川一族・細川忠興と長岡与五郎興秋」のページをめくった。
父忠興から切腹を命ぜられた興秋は、伏見稲荷山・東光院の地で命を終えたとされる。(元和元年六月)
一方命ながらえ肥後天草の地へわたり、子孫はこの地で脈々と続いたともされる。ぴえーるさんの指摘はここにつながっている。
歴史の奇跡はそれから16年後の寛永九年十二月、細川家が肥後の地へ至り、細川忠興は興秋が住まいしたという天草の目と鼻の先である八代の地に入ったということである。天草に残る記録によると興秋の死は寛永十九年だとされるが、父忠興との音信などなかったのだろうか。先の「戦国細川一族」の巻頭で、細川護貞様は天草の地に足を運ばれ、興秋の足跡を訪ねられたことを紹介されているが、確証を得られなかったとされる。
興秋の遺骸は稲荷山の南谷に埋葬されたとされるがその場所は明らかではない。この南谷の入り口に「ありの山墓地」があり、「忠興の家臣深尾長兵衛と深尾源六郎の妻の墓がある」と「戦国細川一族」は紹介している。
この深尾氏について著者戸田氏は詳らかにしていないが、「深尾源六郎の妻」 なる人物は忠興が七十を過ぎて為した娘であり、生母のみつなる人物を深尾長兵衛に託したものである。何故この地にその墓地があるのか・・・不思議な巡り会わせの偶然なのか、興味は尽きない。
三斎は孫娘祢々(三斎女・萬 *烏丸中納言光賢卿簾中* の女、細川光尚室)のお側に幼少のころから召し置かれていた「みつ」という娘を、十四歳になったころもらい受けた。「格別の御憐憫を以召仕れ」ていたが寛永十七年八月、俄かに深尾長兵衛なる者に下し置かれた。身重であったみつは翌月女の子を出産する。「くま」と名付けられたこの赤子は当然の事ながら三斎の子である。三斎七十八歳であった。「御老年の御事ニ御座候とて、御隠密ニ被遊度思召上られ」たが、お七夜には産屋に入り守刀や産着、白銀、御樽・肴を届けたという。また台所向賄いを心配し乳母抱守の手配をし、長兵衛には知行五百石が宛てがわれた。後くまは名をすまとかえる。三斎の没後は烏丸光賢卿簾中萬からすまに対し扶持が下されたらしい。生前の三斎の配慮ではなかったのだろうか。後年長兵衛は弟伊兵衛を養子とし、すまと娶わせ家督させる。源六という子をなすが源六が五歳の時すまは亡くなったらしい。みつなる人の消息は知れない。享保三年深尾源六の記録である。(綿考輯録から)
正保二年十二月付け「八代分領侍帳」に深尾長兵衛五百石、おすま二百石などの記載が確認できる。深尾長兵衛は忠興死後、肥後を離れている。
興秋の法名は黄梅院真月宗心。護煕さまのお住まい湯河原の細川邸(旧近衛邸)のテラスには、祖母・近衛文麿公夫人千代子様が育て愛された黄梅がこの時期美しい花を咲かせていることであろう。(千代子夫人は宇土細川家から毛利家(佐伯三万石)に入られた毛利高徳氏二女である)