大坂牢人何方ニ罷居候共不苦由、従板周(板倉重宗)之状之写給、令披見候、
是ニ付き小河四郎右衛門 ・熊谷権大夫・長屋安左衛門呼下申度
候、内々御約束知行を可給候哉返事次第ニ可仕事
九月廿一日
徳川幕府が大坂夏・冬の陣で西軍に加担したいわゆる大坂浪人の仕官を解禁したのは元和九年閏八月廿八日のこととされる。
忠興は即反応して上記のような書状を忠利に発している。ところが忠利は自分には「借銀が千貫目ほど」あると迷惑げに返事している。
忠興のいささかおかんむり気味の云い様に、忠利はあわてて侘びの返事を入れてこれを了解している。
小河四郎右衛門の千石、熊谷権大夫の五百石、長屋安左衛門の四百石は忠利から給され、三齋の側近(中津衆)として仕えることになる。
小川(河)四郎右衛門について身近な資料には次のようにある。
三斎様御附中津ニ相詰候衆 千石 (於豊前小倉御侍帳)
千石 大坂籠城之働能かりしとて被召出、後ニ松平石見殿に奉公なり (綿考輯録・三齋君ニ御奉公知行被下置面々)
ところが東大史料編纂所の大日本近世資料・細川家資料においては人名索引で次のように記している。
忠興のいささかおかんむり気味の云い様に、忠利はあわてて侘びの返事を入れてこれを了解している。
小河四郎右衛門の千石、熊谷権大夫の五百石、長屋安左衛門の四百石は忠利から給され、三齋の側近(中津衆)として仕えることになる。
小川(河)四郎右衛門について身近な資料には次のようにある。
三斎様御附中津ニ相詰候衆 千石 (於豊前小倉御侍帳)
千石 大坂籠城之働能かりしとて被召出、後ニ松平石見殿に奉公なり (綿考輯録・三齋君ニ御奉公知行被下置面々)
ところが東大史料編纂所の大日本近世資料・細川家資料においては人名索引で次のように記している。
● 小河四郎右衛門 (2-386・387)(7-1633・1797)(9-134)(10-536)
大坂陣に城中に籠城。その折の働きにより元和九年三齋に召出さる。知行千石。三齋歿後松平石見守に仕ふ。(細川家記・豊前御侍帳)
これは間違いではなかろうか。
四郎右衛門が仕えた松平石見守とは、池田輝澄のことである。
四郎右衛門が仕えた松平石見守とは、池田輝澄のことである。
池田騒動と呼ばれるこの事件のきっかけとなった当事者に、小河四郎右衛門の名前がありこれが寛永15~17年だとすると、当然の事ながら四郎右衛門は三齋の元を辞していることになる。退転がいつの時期なのか、ひょっとすると細川家の肥後就封の際辞していたのではないのか。
またやっかいな解決すべき事案がひとつ増えてしまった。そしてこの人の大坂方での働きが如何なるものであったのか、皆目判らないでいる。