先に「三人の大坂浪人」を書いた。大坂浪人の仕官を解禁したのは元和九年閏八月廿八日のこととされる。
それ以前はどうだったのかという疑問が生じる。それは三家老家の一つ米田家の三代目の是季の細川家再仕官についてである。
同じ大坂浪人なのだが、一般の仕官解禁より一年半ほど前のこととなる。当然幕府へ申し入れてのことだろうが、忠利の力量が伺える。
慶長十二年忠興の御意に叶わぬという事で是季は豊前を立ち退いている。このことは、是季の妹婿である飯河肥後の誅伐事件に関する抗議的意味合いがあるものと思われる。是季は七年後の慶長十九年末豊臣秀頼の幕下となった。私の憶測であるが、忠利の代わりに江戸証人となることを拒否して出奔し、同じく秀頼の下についた細川興秋と交流があったのではないか。
忠興は飯河肥後を誅伐すると共に、大坂陣後興秋にも自栽を申し付けるのである。是季の心中はいかばかりであったか。
そして忠利は元和八年の春に、是季に対して帰参させるのである。
「熊本縣史料・近世編第二p377」に、元和八年の記録として次のようなものがある。
監物人数之覚
一、壱人ハ 自身
一、壱人ハ 母
一、壱人ハ 監物女房共
一、壱人ハ せかれ(是長・五歳)
一、貮人ハ 侍
一、八人ハ 小性
一、壱人ハ 臺所人
一、七人ハ 女房達
一、四人ハ はした
一、拾六人ハ 中間・小者
上下合四十貮人
外ニ馬壱疋
これだけの人数を引き連れての帰参であったという。浪人の身でありながら、どのような生活をしていたのか理解の外である。
寛永二年加増四千五百石、家老職、寛永十一年加増三千五百石計壱万石、万治元年正月八日歿、七十三歳 殉死六人(肥後藩主要系図)
是季の帰参については、当然のことながら忠興の許可を得ての上でと思われるが、忠興は逢おうとしない。
寛永二十年(1643)正月十日ころ、光尚は八代に三齋を見舞っている。亡くなる三年ほど前の事だが、綿孝輯録(忠興・下 p305)に「此時長岡監物・沢村大学被召連候、此両人帰参以後初而御目見被仰付候」とある。どうやら三齋の方から「被召連候様」にとの事であったらしい。
出奔から二十一年が経過してのことである。