津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

御恵贈御礼

2012-03-25 09:50:04 | 徒然

 八代市立博物館の福原透先生から論考の抜刷他を給わった。
    ・上田家伝来陶磁器を通して見た高浜焼(前編) 崇城大学芸術学部研究紀要 第4号(2010年)2011年3月発行抜刷 
    ・上田家伝来陶磁器を通して見た高浜焼(後編) 崇城大学芸術学部研究紀要 第5号(2011年)2012年3月発行抜刷 
    ・肥後細川藩における砂糖漬梅の例年献上と八代焼の壷 第二回近世陶磁研究会資料 「幕藩体制下で例年献上された陶磁器(Ⅱ)」
                                                     昭和24年(2012)2月11日発行

 毎々の先生のご厚意に感謝申し上げる。 

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三本杉

2012-03-25 09:06:53 | 徒然

 24日午後からK家をお訪ねする。古文書や甲冑、陶器など古いお家柄らしく種々残されている。その中に見事な一振りの刀があった。
同行いただいたF先生は刀身がわずかに見えたとき、「三本杉ですね、間違いありません」とおっしゃる。
お訪ねする前から、「関の孫六」を所蔵されていることを聞いていたのだが、まさしくそれが証明された。
私はまったく知識を持たないため、「三本杉ってなんですか」と稚拙な質問をしてしまった。
それは関の孫六の特徴である刃紋が、三本の杉が並んでいるように見えることであるらしい。
説明を受けて改めて眺めると、まさしく見事な杉の山である。
そして室町以来の名工の作品が、見事なにぶい光を帯びて、今日まで受け継がれてきたことに感動を覚えた次第である。

      関の孫六  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%85%AD%E5%85%BC%E5%85%83


 

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小河四郎右衛門という人

2012-03-25 09:05:03 | 歴史
先にご紹介した小河四郎右衛門について、埼玉在住のTK 様から詳細なご報告をいただいた。
当ブログでの掲載をお願いしたところ、快くご承引いただいた。深く感謝申し上げる。(一部編集) 

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小河(おごう)は元来播州の産で、本願寺や佐伯毛利家所縁の士です。籠城以前の奉公はよくわかりませんが、
大坂冬の陣では伯楽淵砦陥落の際に、防戦に努め、蜂須賀家臣森九左衞門と鑓を合せる軍功を樹てております。
細川三齋に召出されましたが、其後退転して池田輝澄へ出仕しましたが、家中騒動で主家除封、自身も罪を問われて相馬義胤に召預けとなりました。
その子孫は相馬家臣として連綿続いております。
 
なお、大坂浪人三人召抱えにあたって、三齋と忠利の間でかわされた微妙なやりとりは一寸面白いです。
まず、大坂新参浪人赦免の後、三齋が三人に内々知行の約束をしたことに対して、忠利が「近頃借金の遣り繰りで大変なのに勝手に知行の約束されては迷惑」と言いだしました。
これに対して三齋は「そちらで色々高禄の者を召し抱えているので、こちらで選んだ新参の士に遣わす知行も少しはあるかと思ったのだが・・・」と嫌味を云いながら、
「そちらがダメなら、当初約束より小禄であってもこちらで召し抱える」とへそを曲げてしまいました。
案外のご反発にあわてたのでしょうか、忠利は「当初の約束をたがえては外聞がよろしくないので、是非私の方から知行を遣わせてください」とやむなく折れています。憤る三齋と、苦りきった忠利の顔が思い浮かびます。
 しかし、後年池田家とその家臣の処分を聞いた三齋が忠利に『小河四郎右衞門ハ惣別首尾之あはぬ者にて候つる』と慨嘆しているあたりもまた興味深く思われます。
 
以下は、小河四郎右衞門の事績について調査した事項の抜粋です。ご参考までに報告申し上げます。
 
 

凡例

  『   』・・・史料引用

  (   )・・・史料名

  [   ]・・・原註

  〔   〕・・・私註

 

○小河四郎右衞門保正

 

村上源氏。宇野播磨守則景末裔。播磨國小河庄の人に小河圖書頭保重あり。妻は毛利九郎左衞門高次の女。保重の長子小河四郎右衞門保正(毛利家文書後室系圖、衆臣家譜)。慶長十九年浪人にて大坂城に籠り、薄田隼人正と相組にて物頭を勤む(衆臣家譜)。十一月二十九日蜂須賀至鎭、池田忠雄、石川忠總、水陸より兵を進め、伯樂淵砦を乘取る(寛永諸家系圖傳、鳥取池田家記、石川忠總家臣大坂陣覺書)。此時小河四郎右衞門武功あり。豐臣秀頼より感状を賜る(衆臣家譜)。『城兵森家〔蜂須賀家臣〕ニ追崩サレ、敗軍スル處ニ、小河四郎右衞門ト名乘テ後殿スル、氏純〔蜂須賀家臣森甚太夫〕ヲ始メ、一族十四五人追掛ル、小河橋ノ上ヘアガリ、振リ返リ見テ、敵ハ思シヨリ小勢ナルソ、返セ若者共ト聲ヲカケテ十文字ノ槍ヲ振廻ス、鬨一度ニ突掛リ、森九左衞門カ突出ス鴨ノ觜ノ鑓[此ノ鴨觜ノ鑓ハ氏純カ持替ノ槍ナリケリ]尾河カ頬車ヲ突通ス、痛手ナレハ、小河槍捨北ル、其槍氏純分捕スル、[小河カ捨タル十文字ノ槍、于今甚太夫家ニ相傳スルナリ]〔中略〕小河ヲ突キタル森九左衞門ハ村重〔蜂須賀家臣森甚五兵衞〕、氏純取紛、高名言立ス、是ヲ殘念ナリトテ、氏純カ持替ノ鴨觜ノ槍ヲ持、逐電、其行方ヲ知ラス』(森古傳記)『森九左衞門、撃四郎右衞門走之』(蜂須賀家譜)『塀裏ニテ大野主馬カ組小川四郎右衞門ト森甚五兵衞〔蜂須賀家船手森村重〕槍ヲ合セ、甚五兵衞敵ノ槍ヲ敲キ落シケレバ、小川ハ軍此塲ニ限ルベカラズ、詰ノ城ニテ力戰スベシト罵テ退ク所、森ハ尚返セ々々ト呼ル、四郎右衞門立留リ、本城ノ大事ヲ忘レ砦ノ小迫合ニ繋ランヤト稱シテ靜々ト退ケル』(武編年集成)『同組〔薄田隼人正組〕ニ小河四郎右衞門ト云兵、敵ノヲシ入ルヲ見テ眞前進ミ、毛利甚太夫、横川治太夫〔池田家臣横川重陳〕、毛利甚五衞門等ヲ目ニカケ、進テ鑓ヲ合セ、敵アマタ衝落シケレハ、遠サマヨリナケツキニツキタル鑓ニ當リ、ホウツラツキトヲサレテ引タリケル、小河ニツヽヰテ進ミ出タル面々、平子主膳、渡邊金太夫、其外小川九郎右衞門十人計モ有リケルカ、所々ニテ火華ヲチラシテ戰ヒケリ』(豐内記)『於伯樂渕平子主膳ヨリ前ニ戰、相突致シ引退候敵誰レトモ不相知候處、以後松平石見守樣被 仰下候者、小河四郎右衞門ト申浪人於伯樂淵其方被合鎗候由、右之申立ヲ以渡邊勘兵衞肝煎ニテ此度召抱候筈ニ有之、其方覺有之候ヤト被仰下、次太夫〔池田家臣横川重陳〕申上候者、小河四郎右衞門ト名乘ハ不仕候ヘトモ、成程主膳ヨリ前、引崩候人數ノ内ヨリ一騎蹈止リ合鑓敵ノ頬當之中ヘ突込申候、其敵四郎右衞門ニテ有之候ハ、頬ニ疵可有御座、如形見事ナル振廻ニ有之候ト申上候、右之趣御吟味御座候處、四郎右衞門申上候者、扨々次太夫慥成モノニ御座候、成程其節次太夫ヘ突セ候テ左ノ頬ニ疵御座候ト申上、右之趣申立、貮千五百石ニテ被召抱、御家老相勤居申候、以後御家中伊木伊織トコウ公事有之、御預者ニ成候由及承候』(鳥取池田家記)慶長二十年五月薄田隼人正兼相と共に組頭として戰ふ。大坂落城の砌退去す(衆臣家譜)。元和九年閏八月二十八日幕府、大坂籠城新參諸士を赦免す(淺野家文書)。『一、大坂牢人何方ニ罷居候共不苦由、從板周〔板倉周防守重宗〕之状寫給、令披見候、是ニ付小河四郎右衞門、熊谷權太夫、長屋安左衞門呼下申度候、内々約束申候知行を可給候哉、返事次第ニ可仕事』(大日本近世史料細川家史料所載元和九年九月廿一日付細川忠利宛細川三齋書状)『一、昨日之御書、昨日頂戴仕候、左門〔戸田氏銕〕殿への御返書、便宜次第可遣之由、奉得其意候、次小河四郎右衞門、熊谷權太夫、長屋安左衞門被成御呼下度之由、就其知行之儀右より如被仰候、御諚次第可申付候、大坂牢人之儀、公儀相済申候上者、此方より可申上儀ニ御座候つれ共、拙者手前ふる借錢ハ其儘御座候而、去々年より以來手前之借銀千貫目ニ餘御座候、當年すまし候ハて不叶所多御座候故、右之牢人之儀も御返事ニ罷成迷惑仕候、此等之趣可然樣可有披露候』(大日本近世史料細川家史料所載元和九年九月廿三日付魚住傳左衞門宛細川忠利書状控)『一、小河四郎右衞門、熊谷權太夫、長屋安左衞門事四年已前隱居仕候刻、江戸ニ而魚住傳左衞門、續少助、長船十右衞門を以、若以來大坂牢人御免之時分も候ハヽ、知行被遣候樣ニと頼申候處ニ被心得候由返事ニて候つる事、一、廿一日之御状ニ、自板倉周防殿大坂牢人何ものニても抱可申候ノ状參候由ニて候間、寫給、自然召寄度ものも候ハんかと被存、しらせらるゝ之由承候條、右三人之者如約束知行遣給候ハ可呼下候、返事次第と申候處に先被心得候由ニ候、然共古錢ハ其まゝ置、當借銀千貫目餘ニ付、彼三人之事も無失念候得とも不被申越候由、此所存之外にて行あたり申候、此比事之外高知行之もの其外も御抱候間、人に御やり候知行も在之かと存、申進候而令迷惑候、右三人いかにも小身者共ニ候間、我々無役之内にて知行可遣候間、御氣遣有間敷候事、一、彼者共給候、又子籠之鮭一尺給、一段祝着申候、恐々謹言』(綿考輯録所載元和九年九月廿三日付細川越中守忠利宛細川三齋書状)『大坂牢人三人之儀、周防〔板倉重宗〕殿書状之冩進上申候刻、右三人之者之儀被召寄候樣ニと可申上處、御返事ニ罷成候儀御理可申上とて、不聞書状之躰、中々可申上樣も無御座候、右より御約束之首尾相違仕ヘハ、外聞實儀家中之者存候處まて面目も無御座仕合ニ御座候間、是非知行之儀拙者かたより遣候樣ニ被仰付被下候樣ニ可被申上候、殊更御餘慶も無御座、御藏納之内にて此者共ニ御知行なと被下候ヘハ、彌迷惑仕候、此等之趣、可然樣可有御披露候』(大日本近世史料細川家史料所載元和九年九月廿六日付魚住傳左衞門宛細川忠利書状控)細川越中守忠利へ召抱られ、知行千石〔衆臣系譜に千五百石、大組、足輕預り〕宛行れ、中津城の細川三齋へ付屬せらる(綿考輯録、妙解院殿忠利公御代於豐前小倉御侍帳并輕輩末々共ニ)。寛永九年十月四日細川忠利、肥後國へ轉封さる。細川三齋より乃美主水、小川四郎右衞門、志方半兵衞、肥後國八代へ先遣され、十二月十九日三士八代に參着す。二十二日細川三齋八代着到、二十五日辰刻入城す。小川四郎右衞門の家屋は熊本城二之丸にあり。後に暇を乞ひ細川家を立退き、播磨國宍粟郡山崎領主池田石見守輝澄へ召抱らる(綿考輯録)。知行三千石、内千石無役。鐵炮三十人(内閣文庫藏池田氏家譜集成所収輝澄家士分限帳)。『烈公〔池田光政〕の御伯父石見守殿、元和元年十一月、播州宍粟三萬石に封ぜられ、同四年同國赤穗を加へ賜る[此年右京大夫殿〔池田政綱〕逝去に依て、此人の領知三萬石餘加へられし]、かゝりければ一倍餘の祿となられしかば、家士少くては叶ふべからずとて、伊木兵衞が弟同姓伊織〔知行五千石、内二千石與力十騎、鐵炮三十人〕が浪人にてありしを、五千石にて呼出し、家老とせらる、こゝに菅友白といふ坊主あり、石州殿無類の寵遇なれども其質侫姦なり、或時石州殿、伊織が同役一人抱度よし物語ありければ、友白が才角として大坂浪人小川四郎右衞門と云者を推擧し、此小川武功もある者なりと稱し、三千石にて呼出し、伊織と肩をならべ家の權を執り車の兩輪のごとくなり、石州殿加封あらざりし前より仕へける石丸六右衞門〔知行六百石、鐵炮三十〕、小川三郎兵衞〔知行八千石、鐵炮二十〕共に祿五百石、鐵炮二十挺預り居けり、又別所六左衞門〔知行七千石、旗三十本〕といふ新參の士、友白が肝煎にて六百石あたへられ、旗奉行たり[寛永元年かゝへられし]、此旗の者、小頭何がしと云者、六左衞門が妻の銀子なりと稱し、支配の者に銀子を貸しけるが、次第に多く、石丸六右衞門、小川三郎兵衞預の足輕も此銀子を借り、都合三百目ばかりなりしを、追々返辨し、はづか三十目殘り居けるを、去年〔寛永十六年〕七月の初つかた、急に返すべしと催促す、然るを、今少し待くれよかしと云けるに、別所が小頭大に怒り、人のものかりたるのみならず、約を失しぬる條奇怪なりとて、盆後に及び、石丸、小川が足輕屋敷近邊へ件の小頭出迎ひ、兩組の足輕を打擲す、こは喧嘩なりとて騷動しければ、物頭共出合、樣子聞屆、双方の頭がはからひにて喧嘩せし者の扶持をはなし、先事濟ぬ、かゝる所に別所六左衞門思ひけるは、元來石丸、小川預の者不屆なり、然るに我小頭も同罪にせし事不快なれば、家老小川四郎右衞門へ此旨を訴たり、別所も菅友白が推擧にて呼出され、江戸より宍粟へ參りし時も四郎右衞門方に落付、四郎右衞門に萬事肝煎給はるべきよし、友白より頼むゆへ、四郎右衞門贔屓なる者なり、されば四郎右衞門、或日右喧嘩取扱ひたる物頭十人呼寄、何とぞ別所が組には少々勝を付て、彼が憤りなきやうにせられよかしと談合す、十一人の物頭差に其意にまかせず、四郎右衞門は別所に荷膽する心あれば詞と心とは齟齬し、強て別所が申旨に取計らはんとせしを、十一人物頭大にいきどほり、已に不和となる十一人の者共は、喧嘩は理非によらず、双方同罪たる事大法なり、殊に元來別所が妻の銀子より事起りぬれば、石州殿聞かれても然るべからずと思ひ、同罪にして追放せしといふを、伊織聞、一理あれば彼是取あつかひ、四郎右衞門と十一人の間云なだめ、再び事濟し、其節石州殿は在江戸、菅友伯も江戸にありて、此よしを聞、十一人の取扱甚不埓なり、別所嘸不快に思ふべし、伊織がはからひも曲事なきにあらずとて、八月中旬友伯江戸より書状を以て所存の旨を十一人の方に申おくる、十一人の者一同に立腹し、伊織に付て相談す、かゝりければ、別所をはじめ友白に荷膽する者は小川四郎右衞門が方にあつまり評議し、後には家中二つに分れぬ、石州殿へは友白直に右の趣を申て、伊織其外十一人を讒しければ、石州殿、彼者どもをうとみ申する、是よつて十一人の物頭殘らず宍粟を出奔す、されば十一人の親類はいふに及ばず、同志の輩百餘人、暇乞捨て出奔せり、伊織にも出奔を勸めける者あれども更に領掌せず、只一人留居りけるが、却て臆したる樣に沙汰しければ、是非に及ばずこれも出奔す、此事鎖事にあらざれば、江戸執政に達せらる、今年〔寛永十七年〕三月二十四日石州殿より内匠[建部成べし]、菅友白兩人を使として、伊木伊織、如此書附を出し候、いかゞ候はんやと烈公に尋られしかば、いかにも御爲の樣にと存候、萬事柳生殿肝煎にて候條、頓て荒尾但馬參べければ、其刻談合申べしと答給ふ、五月十八日烈公、柳生に御對面ありし序に右の事御物語ありければ、柳生答に、何ともにがにが敷事、何とぞ然るべき樣にはからひ度由をぞ申されける』(吉備温故秘録)七月朔日江戸評定所にて出入双方の申分を聽取る。七月二日江戸評定所にて出入双方對聞を命ぜらる。小河四郎右衞門、別所六左衞門、牛尾四郎左衞門〔知行二百五十石、小性大横目〕は松平相模守光仲へ、伊木伊織、大原久右衞門〔隱居、羽織、知行二百石〕は松平右近大夫隆政へ、丸山忠兵衞〔知行四百石、郡奉行〕、杉谷太左衞門〔知行四百石、鐵炮十〕は井伊兵部少輔直之へ、田邊勝右衞門、小川三郎兵衞は眞田伊賀守信利へ、石丸六右衞門、小寺八郎右衞門〔知行二百五十石、小性大横目〕は丹羽左京大夫光重へ、菅友柏は戸澤右京亮政盛へ、各々當座に召預けらる(池田氏家譜集成所収輝澄家士分限帳、寛永日記)。『かくて烈公、江戸を發し給ひ、岡山に歸らせ七月十三日播州室津に參り給ふ時〔註略〕、執政より奉書を以て、石見守儀に付所存あらば申あぐべしとの趣なり、やがて御使を以て、私式まで仰聞られ忝次第に候、樣子の儀何共可申趣無御座候、御耳かましき事、御事多半申上も如何と、成程下にてあなたこなた仕候へ共、か樣罷成候義、迷惑候と答給ひぬ〔註略〕、此月江戸にては執政より伊織并十一人共召出され、數度御評定におゐて御穿鑿あり、又小川四郎右衞門、菅友白を出され、對決ありけるに、先年友白が僞書を以て伊織を欺きし事あり、此度伊織、其書翰を懷中し、對決の席にて披て、御奉行に訴ければ、友白たちまち語ふさがりて公事は分る、[僞書の趣は、石州殿、友白事念頃に思はれ候に付、堀田加賀守、酒井讚岐守、松平伊豆守召連られ候處、何も懇意に仰下され、郡内の仕置も仰付候樣挨拶有之候など書のせたる書翰にて、悉皆跡かたもなき空ごとにて、己が權威をふるはんために伊織をあざむきしなり]されども伊織此書を今まで他見に及ばず、此度證據に出す事、心底深く公事を工にひとしく、畢竟石州殿の家を潰すべき心根なり、右の状建部内匠に先日見せし時、何とて石州殿にも披見には入ざりしと御奉行尋られければ、伊織答に、此書翰を主人に見せ候はゞ、必定引やぶり申さるべし、然れば友白の讒訴の證なく、又寫して見せ候半には公事をたくむに似たりとて、私の意達しがたきをおもひ、今日持參仕たるよしを申ける、去ながら終に申披きなく、同月二十六日評定一決して左の通り御裁斷ある、一、伊木伊織、同治左衞門〔伊織子、二十歳〕、同門太郎〔伊織惣領、四歳、知行五百石〕、一、十一人物頭は宇都野〔宇津〕孫右衞門〔知行四百石〕、大原久左〔右〕衞門、川左衞門〔知行二百石、鐵炮十〕、寺西忠左衞門〔隱居、子九郎左衞門知行五百石〕、山脇又〔久〕左衞門〔知行三百石、郡奉行〕、杉屋〔谷〕多左衞門、名倉喜左衞門〔知行五百石〕、丸山忠兵衞、鈴木平右衞門〔知行二百石、鐵炮十人〕、田邊庄右衞門〔知行千石、鐵炮二十〕、荒川源右衞門〔不詳〕、右不殘切腹、〔註略〕一、小川三郎兵衞、脇坂中務〔安元〕へ御預、一、石丸六右衞門、丹羽左京太夫〔光重〕へ御預け、一、小川四郎右衞門、別所六右衞門、遠島、一、菅友白父子〔惣領菅與三右衞門、知行四百石、次男菅八郎左衞門、知行三百石〕共斷罪、一、牛尾四郎右衞門、追放、[小寺八郎右衞門は決斷所には出ざれとも、十一人の同志なれば自殺す]』(吉備温故秘録)『一、右同日〔七月二十六日〕ニ於評定所之被 仰渡候、小河四郎右衞門儀家老之身として出入無事ニ致さずして、別所六左衞門ヲ致荷擔者、惡き樣ニ仕成、代々家老筋之ものとかたきり友柏ト一所ニ成候所不屆被 思召候間、何とそ被 仰付樣可有之候得共、主ノ一筋存候處神妙ニ思召候、命御助被成候、相馬大膳〔義胤〕知行所江御預ケ被成候』(池田氏家譜集成所収輝澄家士分限帳)『一、小川四郎右衞門義、石見守家老役雖申付、新參之身として代々命家老筋之間、伊織と合宿可仕之處、別所六左衞門致荷膽、其上菅友柏躰之中説人と令一味、家中騷動催樣仕成候事不屆思召、雖然主人之劣仕ニ付而被扶身命、相馬大膳亮へ御預之事』(寛永日記)『一、小川四郎右衞門爲家老之身無事ニ成候樣ニハ不致して、六左衞門致荷膽申事ニ仕、其上心立惡敷樣ニ成故、是又御預被成候事』(綿考輯録所載覺)『小河四郎右衞門ハ惣別首尾之あわぬ者にて候つる』(大日本近世史料細川家史料所載寛永十七年七月二十二日付細川忠利宛細川三齋書状)『小河四郎右衞門、家老ノ身として無事ニ成候樣ニ不致して、六左衞門ニかたんいたし申事ニ仕、其上心たて惡敷成樣故、是又御預被成候事』(相馬藩世紀)『一、廿九日〔七月〕、石見守殿家老小河四郎右衞門御預ニ被仰付』(相馬藩世紀)『一、八月三日、小河四郎右衞門、江戸より中村江被指下、同道村田半左衞門、小野田七郎左衞門、歩行羽根田善兵衞、西市左衞門、草野彌五右衞門、於中村、三拾人扶持四郎右衞門ニ附給ル』(相馬藩世紀)『一、六兩[親子ノ小袖代]小河そ〔四郎〕右衞門、[三十人ノ内十二人扶持、金拾壹兩壹分毎年渡ル、但シ十兩六十俵ノ値ノ定、高百六十八石]』(寛永十八年正月改相馬家分限帳)正保元年正月朔日相馬大膳亮義胤へ樽代百疋を獻じ年始を賀す(相馬藩世紀)。寛文五年十月十八日八十歳にて病死す(相馬藩世紀)。『御預ヶ人病死ニ付、御老中江藤田源六御使者ニ而被相達、其内給人ニ小身組合晝夜四人宛勤番、以御奉書、不及御検使、所之出家、百姓、町人ニ死骸爲見屆候而爲取置候樣ニ相濟、病死無疑ト爲致證文、東泉院ニ葬、御奉書之御請、江戸ニ而濟』(相馬藩世紀)

 

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