津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川氏と板倉氏

2012-03-22 12:25:05 | 歴史

  細川氏と板倉氏の関係といえば、細川宗孝公に刃傷に及んだ旗本・板倉勝該のことが浮かんでくる。
勝該が本家筋である板倉勝清を恨んでいてのことであるとされるが、ウイキペディア等によると「異説がある」としている。
異説とは先にご紹介した、「氏家幹人著・旗本御家人--驚きの幕臣社会の真実」に詳しいが、両家が隣同士(白銀)の関係にあってのトラブルだとしている。

細川家記を読んでいたら谷田部藩細川家の興栄女が板倉伊予守に嫁いだことが記されている。後離婚し興栄の養子・興誠に再嫁している。
先の板倉勝清の生母がこの細川興栄女である。(板倉伊予守重同室) 勝清の生年は宝永3年(1706年)だとされるが、その数年後に離別したことが興誠(姉小路大納言公量二男)との婚約の時期から推測される。(宝永六年興栄嫡子興貞16歳で死去、その直後興誠養嗣子となる)

板倉勝該が恨みをかったという勝清が、細川家の濃い血を受け継いでいたということに驚いてしまった。
離縁したとはいえ生母の縁につながる細川宗家の当主を、一族の者が殺めたということは心痛む事件であったろう。

 

時代を遡ると天草島原の乱に幕府代表として派遣され、戦場に臨み命を亡くした板倉重昌も又一族である。

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