津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

日本風俗史学会の「風俗-第32巻第2号」届く

2012-03-15 18:13:18 | 書籍・読書

 「日本の古本屋」でようやく探し当てた日本風俗史学会の「風俗-第32巻第2号」が手元に届いた。(平成5年10月号)
お目当ては、山岸素夫氏の論考「神童女耇姫伝説『梅の薫』と耇姫画像の考察」である。

      http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/preview?eid=23b54fe507564068bd129d27202c2e85&t=1331802928538        

四歳で亡くなられた耇姫の愛らしい行動や言葉が、近侍して人であろうか詳細に書き残されている。
画像の耇姫に重ね合わせ、一段とその死が惜しまれてならないし、そのお墓を自らのお墓の隣にされた御父齊茲公の悲しみの深さが想われる。

全文をご紹介したいところだが、これは著作権の関係があり難しいところだが、許される範囲でいつかご紹介したいと想っている。 

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熊本城下町御客屋

2012-03-15 08:52:58 | 熊本

これは九州横断長崎・熊本・大分広域観光協議会が作った「坂本龍馬と勝海舟が通った九州横断の旅」というパンフの一部をスキャンしたものである。 

文久四年二月十五日細川藩領豊後の佐賀関に上陸した海舟と龍馬の一行は、豊後路を通って十九日熊本の城下に入った。
二十日海舟は横井小楠の元に龍馬を遣わしている。二十一日旅宿を出立高橋町に至り海を渡つて二十三日長崎に入っている。
このことについては 2009-06-22 のブログ「勝海舟細川藩領内を往く」に書いたのでご覧いただきたい。

海舟は熊本藩の本陣に宿泊したと記している。この場所は現在の熊本市一新幼稚園だとされ、一般的には明治天皇の熊本行幸(明治五年)の際の行在所となったところとして知られている。かって海舟・龍馬が同じところに宿泊したことを天皇はご存知であったろうか。  

                        http://blog.goo.ne.jp/np4626/e/5efc56d4832b8457a5618bc969a0edab

新熊本市史の「地図編」には五葉の新町高麗門周辺の地図が紹介されているが、この場所を御客屋とするものはない。
一番古い絵図には隣地に小さな御客屋が見えるがその後は、やや離れた古城堀端に面した道筋に移っている。
かっては木下氏(秀吉正室高台院の甥)の屋敷跡であった。
この一新幼稚園の場所にはいつの頃御客屋は移されたのだろうか。 
木下三郎左衛門・佐分利加左衛門下屋敷→木下三郎左衛門下屋敷・佐分利作右衛門添屋敷→藪弥次右衛門下屋敷・佐分利十左衛門屋敷(一部)→藪内蔵允下屋敷→藪図書下屋敷と変わったことが伺えるのだが・・・これらの屋敷跡を整備したものであろう。
いずれにしろ熊本城玄関口である西の入り口・新町御門からわずか300メートルほどの位置である。

帰りの旅路再び熊本に入った海舟・龍馬一行は同じ御客屋に泊まったことだろう。「 肥後矦より使者あり」と海舟は記している。そして再び龍馬を横井小楠の元へ遣わしている。豊後路の途中では細川隅之助(澄之助=細川護久)に出会い、各藩の諸侯が帰国の途に着きつつあることを知らされる。
時代が動き始める時期である。 

 

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