津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

お安く読む・文春文庫「江戸の備忘録」

2013-11-13 22:33:14 | 書籍・読書

江戸の備忘録 (文春文庫) 江戸の備忘録


内容(「BOOK」データベースより)

信長、秀吉、家康はいかにして乱世を終わらせ、江戸の泰平を築いたのか?江戸時代の「役人の数」「政府の規模」「教育水準」はいかほどだったのか?気鋭の歴史家が民の上に立つ為政者=武士の内実に分け入り、今の日本の土台となった江戸時代の成り立ちを平易な語り口で解き明かす。日本史の勘どころがわかる歴史随筆集。
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三千姫様御難

2013-11-13 11:14:15 | 歴史

 熊本藩年表稿の宝暦五年二月の項に、「三千姫病気に付龍ノ口(細川家上屋敷)にとどめる」とある。

三千姫とは異腹ではあるが、重賢公のすぐ下の二つ違いの妹(享保七年九月熊本生)である。寛延三年四月廿七日、美濃国加納藩主・安藤対馬守信尹 (65,000石)に嫁いだ。信尹は享保十七年(1732)に同家の当主になっているが、奢侈におぼれ役人の綱紀も乱れ藩政は乱れた。そんな中宝暦三年(1753)五月、主だった家臣によって信尹は「押込」となる。家中も三派に分れ紛争が続き、宝暦四年(1754)幕府大目付に出訴に及んだ。幕府評定所での吟味がなされ五年二月結審し多くの家臣が死罪・遠島・処払い等で処分される中、信尹(37歳)は隠居謹慎を命ぜられた。「三千姫病気に付龍ノ口にとどめる」とあるのは、信尹の大名小路の屋敷が召し上げられた為であろう。
この時期三千姫は32歳である。御難なことであるがその後どうなされたのか。天明元年(1781)五月江戸で亡くなられた。(60歳)

この押込事件から派生した御家騒動事件については、笠谷和比古著 主君「押込」の構造 に詳しい。
 
宝暦六年知行15,000石を減知され息・信成が陸奥国磐城平五万石に転封となる。
この人は老中などを務めるなどし、又藩政についても藩校を創立するなど教育に力を尽くしている。 

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島田美術館「肥後・熊本の江戸時代」

2013-11-13 09:25:42 | 展覧会

                                                                    

 

 

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