十一月に入って年賀状の発売が始まったり、干支の置物の話や凧の制作風景などがTVなどで紹介されると、いささか慌ただしく感じられる。
そこで今回は「大凧」の話、「番太日記」に次のような記事があった。
たつあげの事 [ ]は虫食い
春はよう気うへにのほるゆへ、うへをむけけいきをつかするゆへ、身の保養になり息災なり。其のゆへに辰をあけさする。
又娘子にははね羽子板にてうへをむかせいきつき、はねをつくなり。たつ殊の外はやり方々にたゝみ壱枚敷、又二枚敷のあり、
方々にあけに行。見物人多し。古かぢや町松屋達磨殿のたつは、たゝみにつもりて八丈敷程有。其比本山村に鉢ち増(坊ヵ)主
休西とゆふ大ぼうずあり。是をたつにつくる。みな人休西だつとゆふ。夫にさし渡し四五尺のとふ(尾)五ツゆひつけあくる。
其音きんごふ(近郷)はひゝき渡り、糸は細引のよふにあり、四斗桶にたぐりこみ、ふたりにて持行なり。米壱俵に結つきおけば
米を引きて行也。米俵にこしかけ見物する。扨おろす時[ ]しんとふしておろす。方々畑作を[ ]願にてきひしき御法度になり、
もし[ ]其時分にわやく咄あり[ ]御役人松屋にかようなる辰をつくる[ ]松屋殿私の儀は御用達にて御座候と申上られたれは、
御役人しからは手のだるまで、あけらるべしと被仰候とゆふはなしあり。
凧のことを「辰=たつ」と呼んでいるのが興味深い。絵柄に「龍」という文字を書くのもなにか関係あるのだろうか。
幕末の頃の話だと推察されるが、今はもう熊本に大凧を揚げるという事はどこにもないような気がする。
八丈(疊)敷とは3.6メートル平方といったところだが、春日部あたりの大凧に比べると、ちょっと見劣りはするが・・・・・・
どこかで町おこし・村おこしで再興されては如何だろうか??