津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■くまもと文学・歴史館に行きましたけど・・・・

2016-02-04 18:12:47 | 熊本

 オープンから一週間遅れの今日、午後から天気も良かったので熊本県立図書館併設のくまもと文学・歴史館出かけてきましたが・・・・
わくわくして行っただけに少々物足りない感じは否めませんでした。目玉がない!!!

外に出て旧細川別邸である敷地を散策、デジカメで撮影しようと思ったら電池切れ・・・
いささか憂鬱な気持ちで帰宅と相成りました。
 

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■細川護光夫人の御著

2016-02-04 10:40:38 | 書籍・読書

          護光夫人亜衣様の料理に関する本が、若い方ならずとも女性に受けているらしい。すっかり熊本に足を付けられてご活躍である。

                    camellia 細川亜衣 料理教室    http://kumamototeshigoto-labo.jp/special.php?id=11
 

                    食記帖/細川亜衣【著】 イタリア料理の本  
                                   食記帖                        見た目ではない、味なのだ。

           スープ  イタリア料理の本〈2〉 愛しの皿
                     スープ                      料理は物語だ。                  愛しの皿 

                              

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■元禄16年2月4日

2016-02-04 07:46:51 | 歴史

元禄16年(1703)2月4日は赤穂義士が切腹した日である。細川家では芝(白金)の下屋敷に於いて十七人の人達が切腹した。当日のことについて「細川綱利記」は次のように記している。

                                

            二月四日預人ノ面々仕置ノ事申来ル 綱利早速白銀屋敷ニ早打ノ使者ヲ差立十七人ノ面々へ申シ遣シケレハ
           各事一度ハ赦免ノ吉左右申聞カス
へシト存シツルニ只今老中ヨリ仕置ノ奉書到来残念至極ナリ 孰モ妻子親類等
           へ遺言認ムヘシ旨遺體ノ事望ニ任セ送ラスへシ 検使の入来モ晩景
ニ及ヘシ心静ニ支度スヘキ旨申遣シケレハ
           孰モ謹テ承リ舊臘ノ恩命一方ナラス其上死骸ノ事マテ意を懸ラレ有リ難事謝スルニ辞ナシ 旧臘十四日
既ニ相果
           タル屍ナレハ今更故郷へ申越スへキ事モナシ然ナカラ老母又ハ幼少ノ者共ヘハ一封遣ハス事モアランカ宜ク頼入
           ト使者へ申述ヘケル 
無程料理ヲ出シテ種々ノ馳走シ畢テ各沐浴シケレハ麻上下小袖二宛遣ハシ綱利竊二内蔵助
           ニ對面シテ深切ノ挨拶有り内蔵助涙ニ咽ヒ退出ス 
サテ比類ナキ預人共ナレハ軽キ者ノ介錯ニテハ武門ノ礼にア
           ラストテ内蔵助ハ物頭格ノ者其餘ハ小姓組ヲ残ラス列座セシメ今度預人ハ後世武士
ノ鑑トモ成ヘキ者ナレハ人ヲ
           指而ハ申付サルナリ 上座ヨリ次第ノ通十六人ノ介錯スヘシトテ萬端手厚申付ル 家中ノ面々孰モ名残惜ミ兼手附
           置シ
者共ハ奴僕等二至ルマテ愁傷シテ親子ノ情モ是ニハ過キマシと見へケレ共十七人ハ聊カ憂ル色モナク唯何カ
           ニ付綱利厚恩ヲ感シ難有トノミ云ヒ合
リ 未刻台使荒木十左衛門・久永内記徒目附小人等召連入来十七人ハ衣服
           ヲ改目麻上下着圍ノ間ニ列座ス 台使申渡スノ文ニ曰 
浅野内匠頭儀傳奏御用之節吉良上野介へ含意趣場時節
           ヲモ不辨上ヲ軽シメタル仕形不届二被思召候ニ付御仕置上野介儀者無御構被差置候然處ニ其方共
内匠頭継意
           趣徒黨仕飛道具抔持参上野助宅ヘ致推参上野介ヲ討取不憚上仕形不届就被思召切腹被仰付者也
ト孰モ其旨相
           心得レハ台使其座ヲ立退タル上土器ヲ出シ酒ヲ進ム 切腹ノ場ハ大書院舞臺脇ノ白州ナルユヘ各役者ノ間ヨリ直ニ
           出ル 場所には筵疊ヲ敷其上ニ袷蒲圑ヲ曳キ向二白幕ヲ打廻シ一番二内蔵助切腹其儘白張ノ屏風ヲ以手検使ノ前
           ヲ立塞キ死骸ヲ蒲團二包ミ幕ノ違目ヨリ持出棺ニ入レ乗物二載ル 其内ニ筵疊幕陰へ取拂ヒ跡ヲ清メテ又前ノ如ク
           筵疊ヲ敷ク其作法十七人共二同様ニテ孰モ神妙ナル最後ノ躰ナリ サテ死骸要望ノ通リ泉岳寺ニ送ル 乗物一挺ニ
           高挑燈一ツ足軽二人宛騎馬前後ニ乗ル 泉岳寺ニ數十人ヲ遣ハシ手待受ル 他家へ預ケノ面々死骸モ同時ニ泉
           岳寺ニ送リ来ル

接待役を務めた堀内傅右衛門の記録「堀内傅右衛門覚書」によると、実は前日の三日には何らかの前触れがあったものと見え、当日四日の朝には部屋に「花」を飾り御茶を点てるようにとの連絡があった。「花」が飾られたことで十七人はその日が来たことを悟ったという。
四日の朝幕府からの使者が上屋敷(辰口邸)に到来して、老中五名の連署による「御奉書」が届けられた。藩主綱利に対しては「御自分被出会不及」ということであったが、即刻芝(白金)屋敷へ赴いた。

新暦だと三月下旬という季節である。堀内傳右衛門の「御預人記録」によると「七時分より七半時過迄に相済候事」と記されている。4時~5時の一時間ほどの間に十七人の人達が次々と主君の許へと旅立った。綱利は介錯人に物頭格の上士をあて死にいく人を遇した。以って瞑すべし。

 

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