これは堀平左衛門が書き残したものだが、正式には「秘書」(永青文庫)と名づけられている。上妻文庫に書写史料があるが、ここでは「梅原丹七・福地平左衛門 一件略記」とされている。光尚の死からその後の必死の対応や、これに伴う不幸な事件( 福地平左衛門の殺害)などが取り上げられている。
一光尚君忠利公之御子ハ 御天性殊にさがしくまし/\けれは おほやけの御覚もふかく 人々のもてなしも他
に異りけるが、不幸にして御年若く かくれさせ給ひけれハ 世の中灯のきへたる如く 皆人思ひかなしみ
けり かく御年わかくすきさせ給ひむれハ 御曹子綱利公も 皆程は いまた御二才にて渡らせ給ひ 御
代継の事につき 年寄達深き心遣ひの事ありける 此事もとより機密の事なりけれは 世の記録なんともふ
つヽかなりけるを 故ありて 堀勝名のひそかにあつめ 録しおかれけるを 此程もとめ得て 左に写し置ぬ
真源院殿光尚公亜
妙應院殿綱利公
一慶安二年十二月下旬 光尚様於江戸御所労之処 被為及御大切之御様躰ニ付 小笠原右近大夫殿 小笠原右近将監忠真事歟 小笠原右近大夫ノ妹ハ忠利公之御台様にて
光尚君之御母様也 始終御附添被附御心候 其外御一門様方被成御詰候 此節長岡勘解由左兵衛(沼田延之)相詰居申候ニ付 追々早打を以て御国江申越候
同廿四日 家光公上使として 酒井讃岐守(忠勝)殿御出 御懇之被為蒙 上意候ニ付 被遊 御対面御請被 仰上候上ニ而 讃岐守殿江被為 仰合候は 不
肖之私儀大国被為拝領置 御厚恩之程難有仕合奉存候 依之 平生何とそ相応の御奉公をも勤申度念願ニ而罷在候処 ケ様成ル大病ニ而残念之至ニ奉
存候得共 可仕様も無御座候 悴両人居申候得共 幼年ニ而未御奉公相勤可申躰無御座候 私果候以後領国之儀は差上可申候 悴共儀は成長仕候上に
て 御奉公をも可相勤躰ニ御座候ハヽ相応ニ被召仕被下候様 此段御聞置可然様御取計頼入候段 委細被為入 御書附をも御渡被遊候ニ付 讃岐守殿御
感涙ニて御退出被成 此旨達 上聞候処 殊之外無心元被思召候由ニ而 松平伊豆守(信綱)殿 其後阿部豊後守(忠秋)殿為上使御出候得共 難被遊御対
顔 同廿六日被遊御逝去候 右御国被差上候との御儀ニ付 讃岐守殿へ被為仰入候趣御書附写 且又御国之儀ニ付 無異儀差上可申旨 続助左衛門・柘
植勘平両人御国へ為御使被差下 委細被仰下候