一同(慶安)三年正月 長岡佐渡興長於八代 年頭之礼式相済候上 出府仕居申候処 旧蠟 光尚様於江戸御所労之処被為為及御大切 同廿六日被遊御逝
去候趣 江戸より追々早打を以申越候処 天気悪敷 海陸共隙取正月九日於熊本着仕候 且又続助左衛門・柘植勘平も同日ニ着仕候 早速興長宅江長岡監
物(米田是季)・長岡式部(松井寄之)・米田左馬允(是長)を初 御小姓頭・御奉行等何も寄合 先早打を江戸へ差立申候処 又々早打着仕小笠原右近大夫
殿より興長へ御状を以 此節急度江戸江可馳来旨被仰下候 其子細は 綱利様御幼稚ニ被成御座 肥後國之儀は西国筋ニ而も様子有之 其上酒井雅楽頭
(忠清)殿 兼而 細川帯刀殿取立御縁被結度御内存之由ニ而 今度 光尚様御遺領之内四拾万石 綱利様へ被宛行 拾四万石は帯刀殿江被下 綱利様御
後見可被仰付哉之趣ニ付 右之通被仰下候処 興長儀はケ様之節 御国にしかと可罷在候間 監物江戸江罷越可然旨 興長より申談候処 六丸(綱利)様御
登城可被遊候 其節御供可仕者 佐渡より外ニは有之間敷候 其上右近大夫殿より被仰下候趣も有之候付 旁以佐渡参府可然由何も申候得共 承引不仕
候付 何れも一同ニ 此節ハ佐渡罷越可然候半哉と達而申候故 得と了簡仕 其通ニも可然哉と申候而 其席之決定は不仕候 然処 大坂町奉行曽我丹後守
(古祐)殿より興長江御状を以 光尚様御逝去ニ付而は 佐渡儀急度参府可仕旨 小笠原右近大夫殿より被仰越候由御聞届候ニ付 能々被在了簡候処 佐
渡儀は必御国ニ罷在 江戸江は別人差出可然由 縦御国を出候とも途中より可罷帰候 其趣は丹後守殿より右様近大夫殿江は 委細可被仰入由被仰越候ニ
付 則又々興長宅江何も寄合重畳申談候 此節監物儀は持病差起候由ニ而罷出不申候 右丹後守殿御紙面之趣ニ任せ 佐渡儀は弥御国ニ罷在 同姓式
部寄之ニ長岡九郎兵衛(三渕之直)相副 急度江戸江罷越候様 一決仕候 御国中末々迄も何角と批判仕 至極危き御事と甚気遣仕候由 佐渡儀は始終之
事を思慮仕 寄之江密意を委細ニ申含 寄之即夜罷立申候 都甲太兵衛儀は当時鉄炮頭ニ而武功有之者ニ付 今度寄之江差添江戸へ罷越候付 且又梅原
九兵衛儀は柳生但馬守(宗矩)殿御門弟ニ而剣術修練仕候者 忠利様御代浪人分ニ而被召出 光尚様江御附被成 有馬御陣之節も能相働 当時御使番ニ
而今度江戸より被差下置 江戸表功者ニ有之 御大名方ニも御存知之者ニ而 酒井雅楽頭(忠世)殿江御出入も仕 興長 兼々九兵衛心底をも能存知居申候
ニ付 則呼候而 江戸表之躰を得と承届 興長存念之趣委細申含 於江戸雅楽頭殿江興長密意之趣申上 若御承引無之躰ニ候ハヽ彼御所ニ而致切腹候様ニ
と申渡候処 奉得其意候 此節之御奉公と奉存候間 随分心を合相勤可申段申達候ニ付 則太兵衛・九兵衛両人共ニ式部・九郎兵衛一同 江戸江差立申候
興長儀は御国之儀万端手当仕 江戸より之御左右相待申候
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松井寄之が国元を出立するに当たり書き残したのが ■興長殿へ寄之殿遺書(一) ■興長殿へ寄之殿遺書(二・了) である。