津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■寛永15年2月27日

2016-02-27 09:37:04 | 歴史

 云わずと知れた天草島原の乱の「原城落城の日」である。378年前の事に成る。
「熊本藩年表稿」から引用すると、「島原城の総攻撃、落城す。家臣陣佐左衛門、益田四郎を討取る。本藩戦死者 285人、負傷者 1,826人、その他12月20日から1月1日までの死傷者 207人、出征総人数 28,600人、一揆の首 3,600人なり」とある。

28日に予定されていた総攻撃は、鍋島勢の抜け駆けにより開始され、二の丸は27日その鍋島手により午後三時頃に焼け落ちた。本丸も細川手が27日午後五時に乗り込み火を付けた。四郎の家が焼けたのは28日の午前六時頃だとされる。28~29日まで城内の残党狩が行われたとされる。

                              

       

       出典:http://hushiginomedai.holy.jp/

 

前の年10月26日、長岡監物宅から西南の方向に大筒の音を聞き、翌日島原で一揆蜂起を確認してから4ヶ月目のことである。
3月1日光利(光尚)は熊本に帰着、同15日に熊本を発して4月9日江戸に着いた。
一方父・忠利は3月3日に島原を発して熊本に帰着した。体調が思わしくない忠利はしばらくの間熊本で休養することになる。
その後江戸に上った忠利は4月19日息・光利と共に登城して戦果を報告し賞された。5月にはいると論功行賞が行われた。

忠利にとってこの戦はその身体に負担の重いものとなった。18年3月17日の午前四時頃に息をひきとった。(56歳) 

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