G2◇古書状《細川慶順(韶邦)》真筆花押 《稲葉伊予守》宛
慶順公は以前「護順」と名乗っていたが将軍家慶の御字を頂戴して、慶順と名乗る事に成る。「韶邦」を名乗るのは明治改元直前の慶応4年4月23日からだ。徳川家から拝領した御字を避けたいという想いからだろうか・・・・
明治9年に42歳で亡くなくなるから、名乗りとしては「慶順」がずっと長かったわけだ。
稲葉伊予守とは、豊後臼杵藩14代の稲葉観通だと思われる。幼くして天保16年(1845)藩主と成り文久2年(1862)25歳で亡くなった。
慶順は万延元年(1860)に藩主の座に付いているから、それから文久2年(1862)までの二年の間に書かれたものであることが判る。
稲葉家はさかのぼると、忠利の妹・多良が稲葉一通に稼している。古い付き合いがある両家である。
私が解説を付ける筋合いではないが、謎解きが面白い故にである。