津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■雪山老人書「子供手本文章之寫」 序として

2016-02-01 14:59:29 | 史料

熊本藩士に北嶋三立という三百石取りの侍がいた。藩主綱利の命により「肥後國一統志」十五巻を著した人物である。能書家と知られ現在でも熊本一等のj人物と評されている。
寛文九年十月六日三立は陽明学徒であるが故をもって仲間十九人と共に御暇となった。いわゆる異学徒の追放令によるものである。
熊本をはなれた三立は流浪漂流の末、江戸に赴いた。奇行の人として知られるが、また「近世畸人伝」にも取り上げられており、次のように記されている。

   雪山は北村三立といひしかども、世に号をもてしらる。肥後の人にして諸国に遊ぶ。文学ありしかども、独リ書名高し。書法は漢僧雪機に学たり。
   初赤貧にして、屋破れ雨漏ルに、沐浴盤を高く釣、其下に座して書を学べり。あるとき、肥前長崎の橋下に一夜寐て、あくるあした、あたりの酒家
   に入て酒をのむ。あるじ其価を乞に、なしといふ。其家をとふにも亦なしといへば、さらば何する人ぞととへば、もの書もの也とこたふるに、主もす
   ねたるものにて、いで此ごろの閙しきに、酒売ル日記書付給れ。今の酒の代に充んといひしかば、もとよりさして志ス所もなければ、
  日を重ねて
止り、日毎に書つ。さるに漢法の草書なれば、いかにもよめざりしを、さすがに能書也とはしりけん、其人柄も無我なるを
  見て深く信じ、つひに長
崎に住しめけり。其後、隣国の大守、額字をもろこしへ書にやり給ふとて、其草案をかゝしめらるゝに、道人
  大なる筆を持タざれば、軒にかけし簾
の萱をとりて、打ひしぎて書り。さて彼国に渡したるに、彼方にもかばかりの手筆なしとてかへ
  しければ、直に其大守の額となりぬ。さつまの国に
到りし時、金五片賜らんとこひつゝ、これをもて蜆つみたる舟五六艘を買て、こと
  ごとく海に離ち、吾はけふ仁を行へりと悦びしとぞ。蜆を放つは風狂の一事と人はいふべけれど、此翁、仏乗を学びておもふ所ある歟。
   蜀の濠聚寺の僧、一夕門人にいへらく、門外に数万人、烏帽を著て貧道に向ひて命を救んことを乞。はやく出て見よと。門人急に門を開て見るに、

   十余人■()を担で市にゆくをみる。尽く是を買て放つと、蜀記に見えたるよし。また微細なるものは命多し、殺べからずと、竜舒居士も説るよし、
   六如僧都の放生功徳集に出し給へるにかなへり。私におもふに、官なきものは広く仁を行ふことはかなふべからねば、大小をいはず、物の憂を
   救ふは、身に応じたる仁なるべし。 此人生涯印章を持ず、書たるものに印を施したるなしとなん。広沢はこれが門人也。

なかなかの畸人であることが判るが、三立が記した文章もまた奇文がみえる。洒落の効いた文章とも見える。
次回からその一つ「子供手本文章之寫」を数回にわたってご紹介する。 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする