智照院の平面図は昭和52年の日本建築学会九州支部報告、北野隆氏の「近世初期釈家住宅における数奇屋書院について 肥後妙解寺塔頭について」から引用しました。
この建物は寛文四年であり清陰庵と称していた。延宝八年細川光尚の弟・尚房が死去し法名を智照院と称したが、このとき清陰庵を智照院と改名した。
智照院の平面図は昭和52年の日本建築学会九州支部報告、北野隆氏の「近世初期釈家住宅における数奇屋書院について 肥後妙解寺塔頭について」から引用しました。
この建物は寛文四年であり清陰庵と称していた。延宝八年細川光尚の弟・尚房が死去し法名を智照院と称したが、このとき清陰庵を智照院と改名した。