津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■賤機(しずはた)帯

2016-04-02 10:14:36 | 徒然

 もう二年半ほどになるが、東京の千駄木でお茶のお道具やお軸などのご商売をなさっている F様から、毎月カタログをお送りいただいている。
いつもながらその品々に関する解説を読みながら、F様の目のたしかさとお道具に対する思いいれなどが感じられ、また選ばれたお道具のもつ表情に心豊かにさせられる。
今月のカタログの中に大和絵の画家・岡田華郷筆の「しずはた図」の短冊のお幅があった。

    なたねに  蝶の ものくるい      とある。 「蝶」の部分は文字ではなく、二匹のちょうちょが描かれている。

出典は長唄の「賤機(しずはた)帯」であるという。書かれた短冊をみていると、豊かな教養に裏打ちされたことを実感させられる。
謡曲「隅田川」が一中節「峰雲賤機帯(おのえのくもしずはたおび)」そして長唄「賤機帯」に派生したとされる。

    名にし吾妻の角田川。その武蔵野と下総の、眺め隔てぬ春の色、桜に浮かぶ富士の雪 (中略)

          鐘に桜のもの狂ひ、嵐に波のもの狂ひ、菜種に蝶のもの狂ひ

何とすばらしい情景であろうか、その一部を切り取った句だが、周りのすべての情景を知るには相当の勉強を要する。

サイト:賤 機 帯 http://www.tetsukuro.net/nagautaed.php?q=68 を読んでみて、また感慨を新たにしている。
先人のなんと心豊かなことか、われわれも古典にふれ日本人としての感性を深めなければならないと感じた。 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■宇土軍記 肥後・上(一・1)

2016-04-02 08:45:34 | 史料

今日から「宇土軍記」をご紹介する。肥後文献解題によると「宇土城の由来、加藤・小西肥後所領の事から、関ヶ原役の際加藤氏から攻略された事を書いてある。跋文によれば清正記、太閤家譜、慶長記其他二三の覚書を以て編述したもので元禄十三年の著作である」とする。


      一、肥後国宇土の城由来之事異名の事

一、肥後国宇土郡の宗廟三宮神社の縁起ニ云、当社人王四十三代元明天皇の御宇和銅六癸巳年に諸国に郡郷の名を被定、于時肥
   後国を十四郡ニ被為割節、宇土郡は当国の郡郷割納の地と云云、依之国郡為鎮護御勅定春日・住吉の両者を草建す、其より此辺
   も惣て壇の原(段原)と号す、自是歴数三百三十六年已後冷泉院の御宇永承三戌子年、御堂関白道隆公或は中納言隆家卿為仕置肥後の
   国え下向有之たる砌宇土城を築給ふと云云、此節崇添八幡の神社号三宮大明神神殿三社・末社十二宇為有之と也、此外年中行
   事の事ハ縁起ニ有之ニ付略之、右和銅六年より元禄十三庚辰年迄年数凡九百廿八年ニ成ル、又永承年より右同年迄ハ六百五
   十三年ニ成ル也、有記ニ云、肥後国宇土郡宇土の古城ハ名和伯耆守永(長)年の末孫村上弾正大弼源武顕、文明年中ニ同国八代より
   宇土ニ来りて城主となりしと也、宇土郡并益城郡之の内守富領内半郡を領すと云々、又宇土城ニは加悦飛騨守を置、武顕は益城
   郡木原に在城すと云説も有之、名和家の次第ハ武顕・重行・興行・憲行・直・顕孝と次第す、顕孝を伯耆左兵衛尉と号す、伯
   耆守長年の子孫成により称号とす、天正七年己卯年の比顕孝川尻を知行すと云々、同十五丁亥年秀吉公西征の時顕孝城を出て他
   郡ニ趣けり、又加悦飛騨守・本郷甲斐守・三輪某是伯耆守の三家老と云也、同十六戌子年秀吉公肥後一国を佐々陸奥守成政ニ
   賜ふ、尤此時宇土も成政の領地也、成政生害已後肥後一国を加藤主計守清正と小西攝津守行長へ半国ツヽ給り、行長ハ宇土ニ
   在城す、行長ハ泉州境(ママ)の津の商業の子也、若冠の時より秀吉公ニ仕フ、初の名ハ小西弥太郎と号す、行長始の采地ハ小豆島・
   塩飽島なり、秀吉公朝鮮征伐の事を予しり先陳を望む、秀吉公其勇壮の意気を賞し玉ふ、行長女を宗対馬守義和に許嫁するも
   早ク朝鮮通路の案内を知らむ事を欲す、行長朝鮮王城先その武功天下の人口ニあり、慶長五庚子年石田治部小輔ニ与して及(ママ)
   誅、同年九月廿一日より清正宇土の城を被責、十月廿三日ニ落城となり、
一、又云、宇土城は異名にの城共云、又切ッ立の城共唱申候由也
一、異説ニ云、宇土の義壇の原所の者ハ唱申候、田舎者片言にだのはらと申候、子細ハ古国中にして一国の祈祷有之たるより、
   肥後の国の真中ハ宇土ニ相当たる由ニ付、則壇を飾加持有之たるよし、其ゟして右の通ニ被伝候よし、壇を飾たる所ハ宇土町
   筋石の瀬町南がは浄土宗円応寺の西南角、今ハ町屋敷ニ罷成居申候、又々石の瀬薬師堂有之所共申候、所ニての申伝有之ニ付
   其儘ニ配置候、此外種々の節有之候へ共不慥候故不及記候也
一、南条元宅家来福田九郎太夫が云、宇土の城ハ塩田筋塩入の治田を堅固に構へ、堀を堀、門を五か所に構候と云々、
一、右福田か覚書は虎口数五か所と有之候、絵図を以考候へは本丸ニ弐ケ所、三の郭に弐か所、合四か所より外無之候、一ケ所は
   絵図に見え不申候、六の内ニ西の口の角は加悦飛騨持口と有之候、是ハ馬場口の事乎、此辺ニ虎口壱か所有之たる事か、門の
   跡らしき所ハ城の地形とも不相見、城の形ハ見え不申候へ共、畑中の道筋ハ右の道筋らしく相見え、門の石居の石など相残り
   有之候也   一枚カ
一、宇土古城の図は取出候、此壱冊に相添指置申候、是は籠城ノ筋の絵図ニてハ無之、荒々敷像ニていつ此図せる物乎、晴々已
   後の図と見えたり、乍去只今ハ悉崩境内聢と難見分候へバ、責て此図成とも可用物か、 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする