横山大観が大正7年から昭和17年にかけて制作した勅題画(歌会始めの御題を絵にしたもの)10点と領内名勝図巻から《阿蘇北里手永之内》と《求麻川筋》を展観
会期: | 2016年4月11日(月)~5月28日(土) |
---|---|
時間: | 9時30分~16時30分 |
休館: | 日曜・祝日 |
会期中は、前期・後期に分けて展示替えを行います。
前期:4月11日(月)~5月7日(土)
後期:5月9日(月)~5月28日(土)
横山大観が大正7年から昭和17年にかけて制作した勅題画(歌会始めの御題を絵にしたもの)10点と領内名勝図巻から《阿蘇北里手永之内》と《求麻川筋》を展観
会期: | 2016年4月11日(月)~5月28日(土) |
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時間: | 9時30分~16時30分 |
休館: | 日曜・祝日 |
会期中は、前期・後期に分けて展示替えを行います。
前期:4月11日(月)~5月7日(土)
後期:5月9日(月)~5月28日(土)
七、清正肥後へ下向之事
一、慶長五庚子年夏の頃迄ハ清正も在大阪たりといへ共、石田逆心
の義略風聞有之、殊ニ石田と小西と入魂の儀是又無其隠侯ニ付、
清正へ家康公上意ニ、此節九州筋の儀無御心元被思食候間、其
方ハ肥後へ帰国有之見合せ給り侯様ニとの御事ニ付、被任其意、
清正ハ早々肥後へ下向かと見合居侯由也、
八、従家康公清正へ御書被成之事
一、同年八月十二日の御日付ニて従家康公清正へ被下御書熊本へ到
着、其趣は、於上方石田叛逆弥露見侯間、近日一戦可有之侯、
然れは肥後・筑後領国は貴殿へ遣置侯間、成次第ニ仕置可被申
付候由被仰下候ニ付、奉畏侯旨被及御請侯、右の御書熊本へ到
着の翌朝、清正諸士を召集メ被申聞侯趣ハ、右の通従家康公被
仰下候、清正は最前ゟ家康公の味方にて侯、今度弥御懇意ニ被
仰下侯儀ニ侯間、熊本ニ石田方の敵を引請逐一戦、必死ハ此時
と相極侯間、何も此旨相心得軍忠を可励由被申渡侯、家中の輩
承之、此節是非共忠節を可尽と勇ミ申侯由也、
有説ニ云、従家康公清正へ肥後・筑後領国被遣侯由ニて、依之
右小西跡一円被遣侯事也、天草郡ハ豊後と願ニ付御替被下
候由、併両所に高ニ多少有之侯、不審、追て可考也、
筑後ハ立花或ハ筑紫等御敵ニて侯、立花ハ降参本地被下候、筑
紫ハ御改易、依之筑後ハ御除ケ被成侯、肥後本高ハ五十四万石
内検は七十万石ニて侯へは、ケ様の指引有之侯事か、
右家康公の御書ニ付御謀有之、忠興公御事家康公の御供ニ成関
東へ御出陣、其ゟ尾州清洲へ御越被成御逗留の内ニ、従家康公
但馬一国被遣侯との御書も八月十二日の御日付也、右清正へ肥
後・筑後被遣侯と有之も八月十二日の日付の御書也、其節謀ニ
敵の国共を可被遣由諸方の御味方へ被仰遣侯事と見えたり、古
より有之手段なり、
此一乱の節丹後田部(辺)ニ幽斎公御籠城、但馬国の衆敵に成り田部
責衆ニ相加り申、但馬ハ敵国と成侯ニ付従家康公も忠興公へ但
馬国を被遣侯と被仰遣侯と見えたり、併但馬衆の内ニ返忠の
衆も有之、御免有たる方も有之故、其替ニ豊前へ御引替被成の
間、忠興公へ御加恩と聞へ申侯也、委細御当家御領知の一巻ニ
記置也、
九、大友宰相義統石田ニ与して豊後へ趣事
付同国杵築の城へ手遣之事
一、石田は秀吉の出頭ニて、讒言して亡せし者多かりしとなり、
殊に秀吉公御他界巳後は上方ニ在りて家康公ニ奉敵対、天下を
覆さむとて諸国にて味方を催し、其内味方ニ成間敷大名をは兎
角に事を寄せ是を亡さん謀をなし、既ニ日本国中東西南北に至
り凡十八か所ニて一戦すミたり、是みな石田と家康公との御故
なり、又爰ニ豊後前の国主大友宰相義統は、故有て其頃中国辺
ニ浪々の躰ニて在しか、是も石田に与して、此時豊州を切取再
び本国へ帰参すべきとの事にて謀有之所ニ、家老吉弘加兵衛統
幸此趣を聞、いまた時不至侯間、今度は存立侯儀被相止侯様ニ
と制之といへ共、謀ニ不従して同年九月九日従中国豊後へ到り、
旧臣を招き、或ハ土民を集て、其ゟ同国石垣原に陳取、先東方
羽柴越中守忠興公の御家老松井佐渡守・有吉四郎左衛門ニ在木
付の城を可責との事也、
御家伝ニ云、忠興公御苗字秀吉公御代ニハ羽柴、元和元年大坂
落城已後於駿河家康公為上意細川の御名字ニ御改ニ成侯、此時
信国の御脇差御拝領也、木付の節ハ大坂落城より十六ヶ年已前
の事ニて此時は御苗字羽柴也、御剃髪巳後号三斎公なり、
又云、有吉四郎右衛門事、木付の翌年慶長六辛丑年七月七日豊
前於中津の御城武蔵と御付被下侯由也、
松井儀、秀吉公御代豊臣氏を被下被任従五位下ニ、文禄二癸辰
年十一月十一日に於城州高百七十三石弐斗九升拝領也、
有説ニ云、此節有吉鉄炮を以敵を打払たりと也、
依之同十一日の夜、義統ゟ柴田小六と云者を頭として土民等を
召連、木付の城下へ乱入して百姓共の人質を城下ニ指置たるを
取返し申侯、併其翌十二日の朝小六は不慮に討レ申侯、土民共
小六死骸を取り石垣原の本陣へ罷帰申侯也、
一、細川の御家伝ニ云、木付の城内に返忠の者有之、是を便りて敵
城下近く迄押来り責たりしニ、城内ゟも防之申侯也、返忠の者
ハ顕れたるニ付是を搦捕討捨たり、依之敵手段を失ひて早々引
取たり、又人質の分ハ城下ニハ不指置本丸ニ小屋を懸て指置侯
と云々、
十、黒田如水軒杵築の城へ後詰之事
一、黒田ノ如水軒ハ其頃ハ豊前国中津に在城たりしか、嫡子甲斐守
家康公の御供にて関東へ趣給ふニ付、如水乍隠居国の留守に居
玉ふ処に、木付へ敵寄来る由松井・有吉方ゟの注進を聞といな
や、行程十三里の所を一騎懸にして木付へ後詰し給ひ、右両人
の力を戮せ給ふとなり、
忠興公と如水と初ハ此御入魂ニて侯処、慶長五庚子年御息甲
斐守殿豊前ゟ筑前へ国替被仰付侯、其跡忠興公御拝領ニて御国
替ニて侯処ニ、子ノ年の物成甲斐守殿ゟ返納の儀延引ニ付色々
六ヶ敷罷成、御取持の衆有之事済申侯、此後古来ゟ御不通ニ被
給成侯事也、
重利 初名帥ソツ 三宅 與助 與平次 藤兵衛
母ハ惟任日向守殿嫡女 於岸ノ方、始荒木摂津守嫡男荒木新五郎村安ニ嫁セラレ、天正七年荒木家滅亡之後左馬助ニ再嫁セラル、秀林院殿ノ御姉也、
天文二十年九月生、天正十年六月十六日丹波国周山ノ城ニ於テ生害、母ハ妻木勘解由左衛門尉範煕女於牧ノ方
天正十年六月十五日江州坂本城落城ノ砌、左馬助自裁ノ時、三宅六郎大夫懐而蟄居于鞍馬之菴室、既十年及
十二歳携来于丹後託 忠興公ノ内室潜養育之、是家譜ノ所詮世ノ明智系圖ニ所依也、又米田家監物是容ノ家
所傳ノ三宅系圖ニハ、左馬助自截ノ時藤兵衛二歳、乳母抱キ坂本ヲ欠落潜ニ育、七歳ノ時乳母
秀林院殿エ忍ビ参上仕候ニ付、乳母ニハ引出物被下、彼少人ハ分ケハ何トモ不被 仰、慥ナル女房達ニ被 仰付、十歳
餘迄奥方ニ而御育被成、其後丹後宮津エ御下被成、御能様御同前ニ下々迄崇メ申候、丹後ニテ與平次ト申、慶長
五年八月九月北御所ヲ退、寺澤志摩守殿 志摩守殿ハ紀ノ淑■ノ後武内大臣ノ末孫トゾ聞ケル、世々美濃国ニ有りテ寺沢ヲ称セシ人々其後胤トゾ、
志摩殿御父ヲ越中守 廣正宿禰 織田殿ニ仕へ、後ニ父子共ニ太閤ニ仕へ唐津ヲ賜ル 藩翰譜ニ出ル
其外妻木等ノ人々明智ノ一族ニテ、天野源右衛門ハ左馬助家老ニテ有シ由ナレハ、カタ々々初縁ニ
付テ唐津エ御参リ有シト見エタリ
エ内縁有之、 三斎様エ御断ニテ被引取、天草富岡ノ城預り居申候ト有リ、又家の長う臣吉浦郷右衛門季行ガ聞書ニ
郷右衛門ハ天草廣瀬ニテ討死セシ吉浦兵右衛門季良ガ孫ナリ、季行ガ父ヲ吉浦諸兵衛季氏ト云 号一提 一提寛永ノ度富岡ニアリ、于時九歳、鳥銃ノ音モ小耳ニ
能覚居リタル由、折ニ觸物語セシ由ヲ傅、一提覚書一巻ヲ誌シ置ケリ 坂本落城之時上略
上々様段々御生害被成候、左馬助様へも御切腹可被成と御行水場へ藤兵衛様を御呼被成候を、御うば御意を背き、いたき奉り、
御城を立退申候、強ても不被為呼候由、定而君ハ御長久も被成、御家を御立被成御時節も可有御座哉との思召にての御儀ニ御座候哉と
承傅候、藤兵衛様御姉様御座被成候、是ハ御生害ニ而御座候、左候而御うば兎角仕、御城ハ立出候へ共、乱軍之中故難浚大津
裏の葭の繁り候中に奉隠置、其身迄立退候を、京都の町人拾ひ奉り密にそたて上申候、此町人は定而左馬助様御用哉と
一提申候、藤兵衛様天草御財世之御時、京都の町人大文字屋と申者方へ五人扶持持宛被為差登候を、一提能覚居
申候、大文字屋と迄覚申候而、名を覚不申候、左候而太閤様御代ニ成、世上も静に成候上ニ而、藤兵衛ヲ 三斎様之伏見之御屋敷へ
右之町人御供仕、次第を申上候、藤兵衛様十三歳之御時ニ御座候、三斎様被為驚、早速高野山ニ密ニ被指置候、寺院之名も
承候得共失念仕候、御出家下地ニ而御名を帥様と申候、其時分折々忍、伏見に御越被成、秀林院様へ混(ママ)と御對面御座候、
秀林院様ゟ其砌被進候御文一通残居申候、そつ様十九歳之御時、最早時節も推移、苦有間敷と、 三斎様被思召
上候哉、左馬助様御子高野山ニ忍御座候を被聞召付候、御縁方之儀ニ御座候、如何可被成哉と被伺候処、太閤様上意ニ、其世倅
成人仕候とて何程之叓を可仕哉、 三斎様へ被遣候間、いか様とも御心儘にとの儀にて御座候由、依之早速被成御元服、御名を
三宅与助様と被為改、 三斎様より三百石被進、関ヶ原乱之時分迄ハ御当家ニ御座被成、其後御家を御立退被成、肥前
唐津へ御越被成候処ニ、寺澤志摩守様ゟ御先知三百石被進候、唐津へ御越被成候御様子ハ、左馬助様御家老右之天野源右衛門
唐津へ居被申候付、それに御たより被成御越被成候哉と被存候、於唐津大坂乱之時分、御家中何某とか申仁、御陣觸を背
被申候ニ付、志摩守様御立腹被成、討果候様ニと仕手を被差向候処ニ、此人武勇之仁ニ而、家来をも能持居被申候付、屋鋪を取堅め、
弓・鉄炮を放し、寄手を討散し、中々手に及かたく御座候付、志摩守様へも御門迄御出馬被成候程之處ニ、藤兵衛様御馳付
被成、宜敷御働御座候付、三百石御加増ニ而六百石ニ被為成候、其以後段々御加増被成、三千石ニ而天草押へ之御役ニ而
富岡城ニ御座被成候、藤右衛門様ヘハ御別知千石ニ而御番頭役御勤被成候、嘉右衛門様ヘハ御別知千石ニ而富岡御城代御勤
被成御座候、是ハ藤兵衛様御老年ニ御座被成候ニ付、志摩守様御懇意にて御かいそへの御心持にて嘉右衛門様も被遣置候哉と、
一提常々申候、以下略
右ノ三書ヲ合テ、重利、坂本以来ノ事蹟詳也 本文ノ儀ニ依テ三書ノ肝要ナル所ヲ約〆撰定スへケレ共、一字一句ノ轉語ヨリ其時ノ模様ヲ誤ルニ至レハ、其侭ヲ書載テ
其實ヲ明ス、皆大同小異ニシテ、彼ニ委キ者是ニ疎サレハナリ
重利、天正九年十一月生、寛永十四年天草大矢野ニ耶蘓ノ一揆起リ、賊ヲ防キ、同年十一月十四日天草廣瀬村ニテ討死、身ノ届ヲナサレシ也、
年五十七、法号龍徳院殿雪山道伯(ママ)居士、墓所廣瀬上在松山、従本戸行程四合