二、太閤秀吉公九州へ御進発之事 付 宇土ノ城主之事 佐々陸奥守切腹之事
一、薩摩の国主嶋津修理太夫義久ハ対秀吉公逆心ニ付、為御退治秀吉公は天正十五丁亥年二月朔日京都御出馬ニて九州へ御下向と
云々、有説ニて其比嶋津家の領地は薩摩・大隅・日向・肥後四国の由、扠嶋津と大友と豊後の国を争ひ合戦止時無之、是皆国
争ひせし故、秀吉公御下知を被相加しても此儀不相止、依之御進発、嶋津家ハ降参、大友ハ不覚悟故中国筋へ御改 易ニ付牢々
と也
又云、右嶋津義久入道龍伯は幽斎公歌道の御門弟、殊に古今御伝授故別て御入魂の由也
右大友ハ義鎮入道宗麟事也
一、嶋津降参ニ付薩摩・大隅・日向・肥後の領地は被下、残ル分ハ被召放候て其々(ママ)に御仕置被仰付御開陳の由也
一、同年四月日、佐々陸奥守成政肥後国拝領ニて熊本ニ在城、依之宇土の城従清正陸奥守へ被相渡候、併陸奥守仕置悪敷いまニ一
ケ月も不在に一揆蜂起申、此旨を達秀吉公の上聞ニ甚御機嫌不宜候所ニ、上意も無之ニ為御断推て罷登り申す、摂州尼ケ崎に
着舟の旨先達て達上聞の所に、上意ニハ仕置悪敷上押て上洛の段不届ニ被思召候由ニて、同年五月十四日為検使清正を尼ケ崎
へ被指遣、肥後国は召上、陸奥守切腹被仰付候也
有説ニ云、天正十五丁亥年六月六日ニ肥後国を佐々え賜候と云々、是を考ふるに同年五月十四日佐々切腹と云也、閏五月十五日に
佐々跡を加藤・小西に被下候と云々、此等を考候ヘハ六月六日ニ肥後国を佐々ニ被下候と有之ハ相違虚説と見えたり、併為心
得記置候
佐々ニハ信長公御代丿節ハ内藏之助と云、切腹の時は七十余と云々
秀吉公御下向の節肥後国中の城不残明退申候ニ付一戦ハ無之、国士共ヘハ本知を被下置案(安)堵仕罷在候、其已後佐々を肥後の国
主ニ被仰付候、先知の高は不相知候へ共、立身ニ付家来共を取立て領地遣度候へ共、戦無之ニ付明知無之故、兎角の事を寄
せ国侍共丿領地を召放家来共に遣候由、依之恨そなし、国侍五十壱人敵戦申国乱レ申候、此旨達上聞佐々へ為御加勢諸大名衆
四、五頭被仰付候、忠興公も其御内ニて候処、御軍の御用意有之候処に一揆も鎮り申候ニ付相止申候由也、其後頭取の者共ニ
は切腹被仰付候由也
三、加藤主計頭清正・小西摂津守行長肥後国拝領之事
一、秀吉公一度朝鮮国へ御出陣被成度御心願有之候よし、其節は加藤秀吉公と清正譜弟・小西を御先手ニ可仰付候の思召ニ付、同年壬五月十
五日清正・行長両人へ佐々跡肥後被下城主ニ仰付候也
内
弐十五万石ハ 熊本城主加藤主計頭
弐十四万石ハ 宇土城主小西摂津守
五万石ハ 御蔵入右両人へ御預ヶ候
内 弐万五千石ハ 主計頭分
弐万五千石ハ 摂津守分
合五十四万石なり