先に熊本県立図書館で全く偶然に発見した平川家文書にある「平川氏略系」には、平川氏と我が家との家祖である磯部氏のことが詳しく書かれており、口伝に合致する真実に遭遇して興奮している。
我が家の初代磯部庄左衛門の兄・長五郎に「熊」という娘があった。
三斎公の肥後入国にあたり、長五郎・庄左衛門も八代にお供をしている。そして「熊」は十三歳でお城に上がり三斎公のお側に仕えた。
「正保貳年御扶持方御切米御帳」に、「御上臈衆」十七名の中に「くま」とある。その人の扶持が「壱人扶持三石」である。
御上臈とはお目見えが許される奥女中の意であろう。「平川氏略系」には次のようにある。
一、右長五郎ニ女子一人御座候 初名を熊と申候 十三
歳ゟ
三斎様御側被召仕二十一歳迄御近侍ニ被召加
相勤申候 右熊十八歳之時分八代塩屋観音堂及
破壊申候越造立支度由兼而存立居申候然処従
三斎様白銀三十枚被為 拝領候 右之銀を本ニ
仕候而右堂無支建立仕今以無退轉八代
塩屋ニ候事由申傅候
一、三斎様御不豫ニ而被遊 御薨去候後長五郎
庄左衛門儀茂於八代病死仕候 右熊儀者尼ニ
成候而法名龍源と改本坪井堀端宗巌寺
及退轉居申候を建立仕右於寺内病死仕候由
申傅候
一、三斎様 妙解院様御代長五郎父子庄左衛門
三人江色々被為拝領候品多御座候得共右龍源宗
厳寺江入院候時分持参候由ニ而私方江取持不仕候
畢竟庄左衛門儀者長五郎厄■同前ニ而居申候間
何そ頂之物茂無候事候
二十一歳で尼になったと記しているが、私は三斎公が逝去された故だろうかと考えた。長五郎は三斎公に殉死した久野与右衛門の介錯役を務めているが、八代で亡くなっている。
そして「熊」は、父長五郎もその弟である叔父・庄左衛門も八代で死去したため、熊本へ出たものではないかと推察した。
「平川氏略系」に記されている宗厳寺について調べているうち、「肥後国誌」の記事に、「熊」が「忠利君ノ愛妾」という驚愕の記述に遭遇した。
宗厳寺福壽山 (近代デジタルライブラリー 肥後国誌(コマ番号60)参照)
曹洞家(宗カ)長州大寧寺ノ末寺年代不分明 初ハ熊本安國寺ノ末寺ニテ岩立ニ在之 岩立赤尾口ノ西葛木ノ森ノ迹ニアリ今ハ畠ニナレリ
寛文十二年安國寺二世天石尭和尚ヨリ替地願ニヨリ飽田郡津ノ浦村ノ内船場山今ノ長嶺屋敷ニ賜ハル 其後坪井町法華宗久本寺
立田口二移リシ迹地ヲ願ヒ天和二年今ノ地ニ造立ス 本寺ヲ改メテ大寧末寺ニ属ス 四畝一歩免許ナリ 外六畝十八歩ハ年貢地
也 或説云當寺ハ忠利君ノ愛妾法名道法龍源院禅尼寛文十一年寺原町ニ宅地ヲ求メ一宇を興営シ流長院三世船若和尚ノ弟子
達界恵日ヲ菴主トシテ暫ク之ニ居シメ其後天和二年今ノ地ニ移シ福壽山宗巌寺ト號シ大寧末寺ニ属ス 大寧寺二十五世悦源芳
欣和尚貞享四年八月長州ヨリ招請入院日數廿四日在住ス 依之悦源ヲ開山トシ恵日和尚ヲ二世トスト云フ
しかしここで一つの疑問が生じる。忠利公は三斎公にさかのぼる事四年前(寛永18年)に死去している。
肥後国誌にある「忠利君ノ愛妾」の記述の信憑性が多いにゆらぐ事に成る。(忠興の誤記か・・・・)
いずれにしろ、「熊」はなぜ尼という道を選んだのだろうか・・・・
通常「御上臈衆」は主人が死去すると「解雇」の形がとられ、実家に帰される。子をなした人は城内に止めおかれたり、三斎の末子・寄之の生母等は沼田勘解由に再嫁したりしている。お手が付いた人は扶持が与えられる。
尼になるという事は藩の許可が必要となり、法名が与えられ扶持が下し置かれるという。つまり「熊」は三斎公の菩提を弔うために尼に成ったと言うことではなかろうか。寛文十一年とは三斎公の逝去(正保二年)から26年も経過している。その間「熊」はどういう生活をしていたのだろうか。
宗厳寺は廃寺となって現存しない。これ以上の調べは困難かもしれないが、気に成る話ではある。