廿六、清正智謀深キ事
一、清正の手段を考るに、右ニ如書記侯清正は豊後へ出陣有りしに、
飛違へ俄に熊本の先手本道筋を押来り、廻江の迫合其ゟ石ノ瀬
口へ取寄侯ニ付、城方ニは家中の諸士共妻子の片付、又は籠城
万事の支度の儀、治国ニてさへ為武士は其覚悟可有之儀也、ま
してや是は可及乱国儀兼て期したる儀なれは、其程ニ取込有之
間敷事の様ニハ存知侯得共、廿八ニ有之通南条元宅、急キ妻子
共を城内へ取入カ、下知の時節三宅と出合たると有之侯ヘハ、
城内の騒動不大形儀と見えたり、備有て備なきと云ハ此の儀也、
為武士は可覚悟事也、扨又敵方の心を察せらるゝに、清正も定
て如先手の此本道筋を可被成と思ひ、石の瀬口へ究竟の人数を
出し可防之と也、清正其隙も被考、旗本ノ人数ハ道を替へ遥の
山の後を廻り玉フニ付、敵曽て是をしらず、城の後へ出玉ひ不
意に取詰給ふニ付、道筋に何の障もなかりしと也、たとひ敵雖
知之、宗徒の勇士ハ石ノ瀬 口へ指遣すべし跡ハ、小勢なれは出
て可防様も無之、手行を失ひ乍思被取詰たる事、城位詰敵を噤
る謀共也、清正宇土の城を責むと数年工夫有之時節を相待、不
慮の事出来遠き豊後へ出陣有之、是を幸として敵の心を悉能察
し、熊本えハ開陳無之道ゟ俄のやうに宇土の城へ取詰玉ふ事な
り、豊後へ出陣なくハ如何様の謀ニて可被取詰歟、其縁に触た
る謀なれハ不尽事也、誠以智謀深事共也、又云、小西於在城ハ
村々の敵共可申候へとも、留守ニて家来計ニて候ヘハ、上手ゟ
下手への手段ハ何事ニても仕能ものなれは、清正強き勝とは不
被申侯也、
古語云、近而示遠、遠而示近、亦眼看東西而心看在西北、或は
無人行又常蛇又一向ニ裏抔と云、是皆良将の手段也、清正是ヲ
不違事共也、
廿七、清正の陣取ニ付断之事
一、清正の陣取は敵城の後南に相当ル、栗崎山の峠に古の陳城ノ跡
の由にて小キ山形有之侯、是に陳城を構へ渠給ふ、其所を城ノ
越と申侯にて構の跡少相残居申侯、自是敵城を目の下に見下侯、
幅三、四町計の沼相隔りたり、此沼古ハ足入、今ハ浅田ニ罷成
侯也、
一、清正の本陣の通栗崎山の由所ニてハ申伝侯所に、本文所々ニ
ハ清正本陣ハ西岳と相見え申侯、西岳ハ馬場村の山の事也、
昔ハ不知近世ハ段々の畑也、此山北南の幅ハ弐町計、東西の長
サ四町余計、高サ六、七間計、本丸ゟ少高キ歟、自城西岳の峠
迄ハ三町計も可有之侯、栗崎山と西岳との間ハ五、六町計可有
之侯、向合て有之也、栗崎山ハ自是城南ニ相当り申侯、西岳ハ
自城搦手の方西ニ相当り申侯、方角違申侯、本文ニハ本の儘に
何方も西岳と書付置申侯、弥所の儀迫て可考也、
一、又云、西岳ニハ何とぞ旗本の先手など陣取たるか、栗崎山ハ城
ゟハ遠侯間に沼有之、縄手を通路としたる地形ニ侯へは、本陣
有之侯ても堅固成地也、城は巻詰たる儀、其上大将ハ清正ニて
名将の儀ニ侯へは、初ハ館栗崎山ニ被陣取、城をとくと巻詰た
る、已後は本陣を栗崎へ被移たる事か、又最前ゟ栗崎山ニてハ
無之西岳ニて侯や、此段不分明也、大手受取の輩は石ノ瀬ニ陣
取番手として竹束を相守たるなり、搦手の各ハ西岳に陣取、其
後に本陣をも取敷、諸組ハ又番手ニ竹束を相守申侯ハ、互ニ為
助力可然侯成歟、是ニてハ海上の通路もよく侯半歟、尤西岳ハ
城ヘハ此ニ近く侯得共、山ニて勝地ニて侯得は苦かる間敷歟、
様子不相知侯儀ニ侯へとも心付ニ記置侯也、
宇土軍記上 (了)