佐藤傳三郎が林外記を打ち取った事件に付き、外記の家臣・後藤市郎右衛門の「御尋ね」について口上書である。
御尋ニ付而申上覚
一、佐藤傳三郎殿と外記と今朝五ツ過ニ差違被申様子少も不
存候 果シ被申候心當少も密之御談合被成候間何も退候へと傳三
郎殿被仰候ニ付児小姓共も其座ニ居不申候 太刀音高く
聞え申候付児小姓共私とも様子申聞候ニ付其侭参見申
候へは子両人共ニ相果被申候ニ付私勘右衛門と申者両人左馬允
様江伺公右両人相果被申し候通申上候へは番を仕居申候
へと御意被成候付外記屋敷取罷帰外記死骸之近所ニ
惣兵衛其外小姓共付置私儀は女房衆居申候所江
参候へは茂右衛門と申ものハ前廉より女房衆ニ付居申候
私共ニ女房衆ニ附居申候処ニ表ニ而大勢切合申音仕候而
奥之口を■(扌にメ=締)両人奥江附居申候 奥之口を打破り申候
ニ付両人として外記女房衆を召連明石玄碩所江うらゟ
退申候處郡安左衛門殿其外御鉄炮衆数人御座候ニ付
私刀脇差出し不申候ハヽ外記女房衆御通し有間敷由
被仰付候間無是非刀脇差出し外記女房衆召連玄碩所江
参申し候 傳三郎殿外記被相果候儀併下々相果候様子
今日も内々之儀少も存不申候事
一、勘右衛門儀も相果申様子如何様之存相果候も存不申候
私茂左衛門両人儀は外記常ニ申付候ハ火事其外何
事ニ付而も女房衆之裁判仕候へと申付候ニ付今朝も
女房衆江付居申候事 右之外ニは何ヶ度被成御尋
候而も申上儀無御座候以上
慶安三年
七月朔日 林外記内 後藤市右郎衛門
志水新丞殿
西郡要人殿
凶行現場となった林外記の屋敷は、「新熊本市史・地図編」の「20・山崎之絵図但二ノ丸塩屋町之内茂有之」で知ることができる。
市右衛門が外記の奥方を避難させたのが明石玄碩宅とこの口上書に記されているが、まさしく右隣が玄碩の屋敷である。
明石玄碩とは御医師衆 六百石 (真源院様御代御侍名附)
六百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
万治二年知行被差上候 六百石