先に書いた「御尋ニ付而申上覚 後藤市右郎衛門」と、この原武左衛門の「覚」において、特段新たな情報はもたらされていない。
まるで申し合わせたような文章である。
御尋ニ付而申上覚
一、佐藤傳三郎殿と今朝五ツ過ニ外記処ニ被参御出何やらん
御隠密之御談合被成候間何もの退候へと傳三郎殿被仰
候ニ付児小姓迄も其座ニ居不申候ニ付太刀音高く聞へ申
候ニ付而児小姓共参り私共様子申聞候ニ付其侭参見申
候へは子両人共ニ相果江申聞候ニ付其侭参見申候へは
早両人共ニ相果被申し候ニ付私儀は内々外記被申付候ハ火事
其外何事ニ而も後藤市郎右衛門私両人は女房衆を裁判仕
候へと被申付候ニ付奥江参女房衆ニ付居申候処おもてニ而
大勢切合申音仕候間おく之口をしめ後藤市郎右衛門私両人
共ニ女房衆ニ付居申候処ニ奥之口を打破り申候ニ付両人として
外記女房衆を召連明石玄碩所江うらゟのけ申候所ニ郡
安右衛門殿其外御鉄炮衆数人御座候而私共刀脇差出し
不申候ハヽ外記女房衆御通し有間敷由被仰付候間無是非
刀脇差出し女房衆召連玄碩所江参申し候 傳三郎殿外記
果し申候儀幷下々相果候様子今日も内々之儀存不申候
事 右之外ニは何ヶ度御尋被成候而も申上儀無御座候
以上
慶安三年
七月朔日 林外記内 原 武左衛門
志水新丞殿
西郡要人殿
先の後藤市郎右衛門とこの原武左衛門両人の証言からすると、傳三郎と外記は刺し違えて死んだようである。外記には二人の子供があり両人とも死亡している。
「子」と書かれているが何歳ほどの人であったのだろうか。夫人は隣家の医家明石玄碩の家に逃げ込み助かっている。
夫人は八月八日熊本を離れているが、有縁の人を頼っての離国だと思われるがどちらへ行かれたのか?いずれにしても不可解な事件である。
藩主の居館・花畑邸の目と鼻の先で起こっているが、花畑邸が幼い主・六丸(綱利)を迎えるのは12年後のことである。