正保四年の今日八月一日忠興の長男・細川忠隆が亡くなっている。(与一郎、入道して休無)67歳
忠隆は3,000の知行を、息忠恒と忠春にそれぞれ1,000石を、残り1,000石を娘たちに分け与えた。この後子孫は内膳家として臣従することになる。
正保という年は細川家が大きく変わっていく。
正保二年二月には藩主・光尚は2,720人の共ぞろいで堂々の参勤を行った。
閏五月には三齋が八代領を継がせたいとしていた立孝(宇土支藩藩祖)が亡くなっている。
十二月には光尚の祖父三齋が立孝の後を追うように死去した。
正保三年六月光尚は立孝の嫡子10歳の宮松に宇土支藩の立藩させ30,000石を内分した。
五月にはこれに先んじて、筆頭家老・松井興長を八代城主とした。
九月には刑部家の興孝に25,000石を給するなど、細川家の土台を盤石なものとした。
正保四年六月末には長崎にポルトガルの船が入港し、七月に入り細川家は長岡(米田)監物を主将として出陣(11,300人)した。
このように正保という時代は激動の時代といっても過言ではない。
付足し:宮本武蔵が亡くなったのも正保二年五月である。