台風はどうやら道筋を変えて熊本からは大きく離れて行きました。わずかな雨が東の空に大きな虹の贈り物をしてくれました。
家々の壁に夕日が当たり幻想的な景色を見せてくれたのですが、カメラの準備をするうちにまたたく間に変化をして、シャッターチャンスを逃がしてしまいました。
右田牛之助は忠利公に殉死した右田因幡統安を家祖とする徹家の四代である。右田因幡は大友家牢人であり豊前において召出された。
初代は何故か因幡の曾孫となっている。
右田牛之助 二百石 御小姓組二番御鉄炮頭御中小姓組
又 御鉄炮三十挺頭 二百石御足百石
又 御側五十挺頭 二百石 宝暦八寅十一月廿八日当役
こちらも段ボール箱から生還した一冊、めでたく本棚に居並ぶことになった。
購入した後一通り読んではいるが、なかなか難しい内容に難儀したことを覚えているが、今回改めて読み返してみると大変面白い。
第二章に 青陵の「米テク」藩政改革論 がある。細川家の米政策が取り上げられている。
熊本藩は相当量の産米を大坂の蔵屋敷に運び入れ高値の時に放出し、相場が安い時期には他藩の米を安く買い入れ熊本へ運び知行米・扶持米にしており、その差益は膨大な額になっている。
「米テク」を唱えた青陵とは加賀藩に仕えた海保青陵のことだが、加賀藩の藩政改革にこの熊本方式を唱えているのである。
青陵が生きた時代は、まさに大坂のコメ相場は肥後米によって動かされていたという。
これは偏に藩のコメ相場に関する情報収集能力の高さによるものである。
何につけ相場というものは大いなるリスクを伴う。先行投資をして莫大な被害を被ったこともある。
藩主齊護誕生に尽力した杉浦仁一郎は、その功績により後奉行職に上り詰めたが、天保元年五月、先年江戸に於いて独断で米を購入したが騰貴を招き莫大な損失を招き(25,000両)御役御免となっている。