津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■宗孝公災難の日

2017-08-15 10:56:33 | 史料

 延享四年の今日八月十五日、宗孝公は江戸城中で旗本寄合席板倉勝該から切り付けられた。正式には十六日の死去とされているが、ほとんど即死状態であったといわれるが、公然の秘密ということであろう。駕籠で運び出され、小姓頭・生田又助が終始藩邸につくまで駕籠に向かい声をかけ続けたとされる。生存している様に知らしめるその機転が今以て讃えられている。
事件の詳細についてはこの人の事件報告書ともいうべき「生田又助覚書」をはじめとして、「宗孝公被為蒙御手疵候一件」「延享秘録」「秘書細板記」「隠見細倉記」「八代蜜柑」「板倉騒動」「板倉修理乱心記」「降徳公御変記」など沢山の記録が存在している。

ここでは「隠見細倉記」(細倉記の細=細川、倉=板倉)の冒頭部分をご紹介する。
      

          隠見細倉記

         延享四丁夘年八月十五日 細川越中守
      如例月次出仕之儀は諸大名不残事也 扨大廣間
      面々は兼而申合ニも無之儀なれ共高位之御方ニ候ヘハ
      段々御上座ゟ(よろ)しく御間定り諸侯出仕之上大御目付衆
      見合有御礼始まり候事也 越中守殿毎之通座席江
      着座以後小用所江被参候処跡ゟ来し人や有けん
      誰共知す抜打ニ首筋際ニ打懸タリ 是ハと思ひ
      給ふ内ニたゝミかけて左之肩江切懸ケタリ 越中守殿も
      我に覚る敵なし全乱心人なるへしとて殿中と申
      兎角組伏せはやと思はれけれ共其内手疵深
      けれハ叶かたくいかヽせんとしハし立やすらひし内ニ誰云
      となく小用所ニ大乱なりと云声のしけれハ御杉戸
      御番両人御徒目付聞付御目付衆江早々告けれは大目付
      石川土佐守守殿御目付中山五郎左衛門殿其外追々馳集り
      被参候時は最早越中守殿ニハ大廣間大廊下迄被参

      脇差左持居り被申候 土佐守殿越中守殿へ向ヒ申候
      時は誰人共不知跡に血ニ染たることくなれハ御家名ハと
      問し時たへ/\敷声ニ而細川越中守と答ふ 誰人討
      懸しやと尋候時越中守殿被答候ハ誰共見分ケす
      上下着用之者なりと有しかハ夫ゟ直ニ土佐守殿
      御徒目付と小坊主ニ分へちり不申様集可置由
      扨又御門/\早速打せ可申其段達候様と御目付衆ゟ
      被申渡けれハ早速申通し御玄関前御門ゟ外桜田迄
      御門を打たり 扨越中守殿療治之儀詰合御醫師江

      被仰付け夫ゟ切懸し人有へしと大勢相尋しに縁
      の上ニ抜身の脇差有り 扨こそ此所ニ脇差有り此近所
      外ヘハ行まし殊更無刀と見へたり詰り/\をさかせ
      とて尋しに右之小用所すミに人有 夫ゟ御目付衆
      御徒目付呼寄いかなる人そと問せしに修理なりと
      答ふ 御目付衆被申候ハいかヽして殿中も憚らすかくの
      躰はいかヽと被申けれハ修理殿被申候ハ誰共知らす
      自分ニ切懸しにゟ打かけ候とや 扨其元之髪ハ
      何とて切被申候哉と尋けらハ人をあやめ自分も難立
      存髪を切申候 夫は何にて切被申候哉其節修理殿
      被申候は懐中之鋏ニ而切しと答へ給ふ 全乱心と
      見へし上は御徒目付立寄蘇鉄之間脇小部屋へ
      入置御徒目付其外御小人目付付置候と也
    一、越中守殿手疵療治之時分早速ニ石川土佐守殿を以
      人参被為拝領候段越中守殿ニ被申渡候処有難仕合
      御礼之儀は宜取成被下候様に被申上候 療治相済候上
      御小姓を以御湯漬被為拝領旨療治ニ而気も尽可申
      候し間給可申旨 上意ニ而被為拝領旨御申渡候処右之
      御湯漬不残被致頂戴候 御礼之儀も声高ニ被申上候
      右之通之始末強生成ル事と何も我を折しと也

              以下略

この後小姓頭他二名が異例にて殿中に入り、宗孝に付き添い平川門(不浄門ともいわれる)をでて辰口邸へ帰られた。
最初にも書いた通り即死状態であったとされる。弟君(重賢公)の相続も認められ翌十六日に死去されたとされる。
板倉修理は二十三日に切腹した。
この事件に際しては相聟(紀伊大納言宗直女)である伊達宗村や、妹婿であった(妹・岑姫は前年に死去)織田山城守信旧の働きが注目される。
      

コメント (2)
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