連日の暑さで少々疲れ気味、早々とシャワーもしたし、今日は早寝をしようかと思ったらぐらりと来た・・・
3くらいかなと思ったら案の定である。暑くて地下のナマズも耐え切れなかったか。
昨日は立秋、まったくらしくもない昨日今日だが、明日は待望の雨が予想されている。
台風は熊本市内にはまったく雨をもたらさなかったから、10㎜くらいは降ってくれないかなーと思うのだが。
細川光尚没後の慶安三年七月朔日、その寵臣ともいわれた大目付・林外記が佐藤傳三郎に討ち果たされた。この文書は傳三郎の口上書の写しであるが、なぜ故の凶行であるのかは記されておらず、原因は闇の中にある。
奉行所日帳は当日の記録として次のように記している。
一、朝五ツ時分林外記所へ佐藤傳三郎意趣有之由ニ而仕懸打
果候伊藤十左衛門・同左内・同金十郎も懸合候處左内相果候
十左衛門・金十郎手負申候 上下死人十三人有之候事
そして八月八日
一、林外記女房衆今日被罷立候ニ付東条新右衛門被付遣候 大坂京
衆へ遣候書状とも新右衛門持参候ニと新右衛門やとへ持被遣候
状とも請取候との手形此帳之間ニ入置候
慶安二年十二月二十六日藩主・光尚が領国返上を申し出て死去した。降ってわいた一大事に騒然となる中、家老松井興長らは養嗣子・寄之らを江戸へ派遣し、死力を尽くし嫡子・六丸(綱利)への相続を懇願する。
そんな中光尚に殉死するものが続く中、当然殉死するだろうと噂された林外記に対する非難の声もあったらしい。
しかし外記は六丸への遺領相続に尽力していた。
熊本藩年表稿は慶安四年二月三日のこととして、「稲葉能登守、跡目相続について幕府の意向の趣を林外記に伝う。是日林外記、細川家の家老に伝言す」と記している。
そして四月十八日長岡式部(寄之)、同・勘解由に対し幕府から遺領相続が命じられた。
五月末には幕府から目付が熊本に派遣された。その一人が使番・能勢小十郎であり、佐藤傳三郎はこの小十郎の「御附」を命ぜらてたことが口上書で見て取れる。
林外記はこの際国許へ帰ったのであろうか。そして七月朔日この事件が起きたのである。
今後事件の真相が明らかになるであろう史料が出てくることを望むところだが、傳三郎には特にお咎めもなかったというから、まことに不可解な事件である。