宇土支藩の7代藩主・立礼が、宗家の10代目の当主(齊茲)になったのは、天明3年9月のことであり、当時25歳である。
宇土藩主時代に嫡子・立之が生まれている。宗家先代当主・治年には二人の男子があったが、いまだ幼く、齊茲の跡は二男の應五郎に継がせることが内定していたらしい。
齊茲は宗家に入ってから、五男五女をなしているが、男子二人が夭折、二男茲詮は23歳で亡くなった。
女子は五人(二女~六女)五人が夭折している。
養父・治年の子・應五郎が6歳で亡くなり、齊茲の跡は嫡男斎樹がつぐことになるが、それは文化7年(1810)である。
齊茲がこの年に隠居するが、御年51歳の若さである。隠居後三女をなした。四女は産後に死去しているようで命名もされていない。五女の融(アキ)姫は濱町屋敷で誕生している。10歳年が離れた六女の耇(コウ)姫は熊本の本山御殿で誕生している。齊茲64歳である。
耇姫誕生については面白い話が伝わっている。齊茲は耇の生母・倉と共に、宇土に出かけて安産を祈願している。
宇土での宿所で倉は「白髪の老翁」の夢を見て経緯を齊茲に語っている。齊茲はこれを詳しく聞き「それは御父興文公によう似させたまう」と不思議がった。
日が満ち文政6年2月14日、耇姫が誕生した。果たして耈姫さまは御祖父様似であったのだろうか?
この耇姫についてはその愛らしい姿が描かれ残されている。画才ゆたかな齊茲は耇姫像の模写絵を残している。
その愛らしさは、仕える廻りの者を魅了したが、わずか4歳弱で二の丸お屋形で死去した。
眼下の桜や遠くの山々の景色を望まれてお楽しみになったことであろう。蓑田勝彦氏は「熊本歴研・史叢 第13号」に「細川耇姫と荒仕子清七」という文を掲げておられるが、当時江戸詰めの武家奉公人最下級といわれる荒仕子の清七というものが、耇姫が病になったということを聞きつけ、「ことの外仰天して、そのまま裸になり総身に水をかかり、薬師に詣でては又水をかかるなどを繰り返して平癒を祈った」というのである。
熊本に在った時、その愛らしさを見聞きしていたものであろうか。
仕えていた人々の嘆きは深く、これらのことは「梅の薫」という著に詳細に伝えられている。
日本風俗学会誌№115(平成5年10月発行)第32巻・第2号に紹介されている。