昨日の事だが、奥方が今年は雨が少ないと言う。早い梅雨入りだったので、長い期間鬱陶しいことだと思ったが、確かにいかにも梅雨の雨の降りという日は意外と少ないように思える。
空梅雨の部類かもしれない。
今日という日は、私が小学6年の時(昭和28年)に大規模な水害が発生、大被害が出て同窓の人が30名弱が命をなくした。
毎年その日を迎えると、友達の御霊に合掌するのだが、今日は雨が降ることもなくうっかり忘れるところだった。
ダイアリーに書き込みをするとき気づいて、大いに慌てたことである。
68年の時の経過がある中、私にはこれだけは絶対に忘れてはならない一日で、これを忘れたら亡くなった人たちに申し訳が立たない。
ちょうど今頃の時間からあちこちで堤防が切れ、我が家も鴨居の高さまで水が来て、なんとか脱出して命を拾った。
ただただご冥福をお祈り申し上げるしか、すべがない虚しさを感じる。
東唐人町(現・紺屋町1)にあったという百貨店の走りだといわれる「競商場」前の唐人町の賑わいである。
左手(地図では上)、船場の方から来た道が突き当たった場所である。
写真では判りにくいが、やや筋違いに右手に進む道があり、これを行くと現在では大きく迂回した市電の通り、商工会議所前あたりに出る。
桑野豊助著「くまもと商家物語」では、二階建ての木造と思われる図(下図)が紹介されているが、上の写真右手の建物が描かれているようだ。
甲斐青萍の画をまとめた、伊藤重剛編著の「熊本街並の画集」の「熊本城下街並屏風」をみると、中庭をもつ三階建ての洋館が描かれており(p29)、この写真では右手の茶色に着色された建物がそうである。
明治17年の開業で、間口2間×奥行1間ほどを、テナントとして小間物・雑貨・古着・玩具などや婦人・子供用品、日用品などの店が並び、中庭に沿って一回りすると出口に至るというような作りであったらしい。
まだ電灯ががなく、ろうそくやランプの時代だが、この写真のように電気が通るに及んで営業も夕刻にもおよび、人並みで賑わったようだ。
なかなかのアィディアマンだが、もともとは細川家家臣・長谷川家に仕えた軽輩であったそうな。どこに才能があるかわからない、維新後起業して財をなした。
ちなみに、写真左手の「〇にセ」とあるお店も、「くまもと商家物語」に紹介されている。
当時売上番付№1の呉服屋・石坂清四郎のお店であることが判る。
唐人町筋の貴重な資料である。
先に書いた「耇姫」さまの続きである。大きなおざぶに座られた御姿はなんとかわいらしいことか、又こちらの立像は少し成長なさっているように思える。
右手に扇子をお持ちだが、これは舞を舞われている御姿だとされる。
「梅の薫」によると、耇姫は狂言の「瓢の神」「花折」が大変お好きで、役者が舞うのをご覧になった後、みずから真似て舞われたという。
「四歳でお亡くなりになった」というが、現代風に言うと三歳と十か月である。まさにかわいい盛りである。
残念ながら私は、狂言を拝見するという機会もなく、「瓢の神」「花折」がどのようなものであるのか知る由もないが、サイトで色々調べてみると新発意(しんぼち=小坊主)が登場する後者の話が特にお好きではなかったかと推察する。
さてこの扇子を右手に持った仕種は、いずれにしてもどちらかの狂言だと推察されるが、さてどうであろう。
YouTubeで見れないかと思ったが、残念ながら見ることはできないようだ。