津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■欲しいけれど手が出ない「長岡監物宛小幡景憲(縄直)書状」

2024-11-19 10:04:40 | オークション

商品説明に次のようにある。
「極稀文書 小幡景憲(縄直)書状 長岡監物(是季)宛 甲陽軍鑑編纂者として著名 武田流兵法の大成者 司馬遼太郎著作の大阪の陣を舞台とした小説「城塞」主人公 本書状は江戸幕府の使番として熊本藩重臣長岡監物の人質についてその近況を音信したもの。恐らく寛永十五年頃のものか。武田家旧臣~幕臣~兵法家として名を成した小幡景憲の幕臣時代の軌跡が判明する稀少文書。」 
そんな説明を見ただけで「何事?」と思ってしまい内容が知りたくてしようがない。欲しいけれど高い、年金暮らしにはとても手が出ない。
是を手に入れた方に、もし私の願いが叶うのならその内容について教えていただきたいと切に願う次第である。

江戸初期 小幡景憲(縄直)書状 長岡監物宛甲陽軍鑑編纂者大阪の陣司馬遼「城塞」主人公武田信玄消息和本古文書古筆短冊書簡大名戦国武将手紙

 

 この書状は長岡監物(米田是季)に宛てたものだが、江戸證人である息・新十郎の消息を主としたものではないことはその内容が一つ書の三番目であることからも伺える。
新十郎(米田是正=是季二男)は、寛永十年九月に江戸證人となっている。
この書状は寛永十六年(1639)のものではないかと思われるので、新十郎殿の江戸での證人生活は6年を過ぎている。
天和2年(1682)6月、57歳で死去しているから、この書状の時は15歳位ではなかろうか。
越中守(忠利)、肥後守(光尚)、伊丹角助などの名前が見える。

 

  

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■「堀内傳右衛門覺書」‐(20)

2024-11-19 06:48:15 | 堀内傳右衛門覺書

(81)
一平野九郎右衛門被申候は、皆共出候へは、何れも窮屈に被存候、緩々と語り申事も遠慮に存候、此段宜敷様に挨拶を致呉候樣にと被申候
 に付、我等申候は、九郎右衛門は咄好にて候、五郎太夫も同然にて候、となたも規度御あしらひ被成候に付、御窮屈にも可被思召候、必
 々無語遠慮、御心安緩々と御咄被成候はゞ、何も悅可申と申たる事
(82)
一何れも徒然の時分のためとて、平家物語、太平記なと出申候、老人衆眼鏡を、我等へ所望被致候、其儘調候て致持參候、三國志、同名平
 八致所持候を出申候、吉田・原・磯谷なと切々見被申候事
(83)

一或時平野九郎右衛門、蓋茶碗にごまめを醤油にてにしめ、唐辛子かけ、茶うけにとて、宮村團之進持參めされ候由にて、我等へ被申候
 は、是はあの衆へ出し申候はゞ、慰に成可申哉如何と被申候に付、成程能可有御座候とて、袂に入持參仕、すそわけ仕候とて出し候へ
 は、何れも打寄、扨々是は忝、夜の藥酒被下候時分、肴に可仕とて、皆々紙に包取、悅被申候、惣體御酒も御伺被成候て、朝晩の御料理
 にも、三遍より外は成不申候故、好被申候衆は、中椀にて給被申候、右の通にて、夜は藥酒とて所望被仕候様に成り、夜給被申候衆も有
 之候事
(84)
一助右衛門被申候は、十五にか成候坊主衆、名は失念仕候、藥酒の酌に被參候刻、内蔵之助申候は、誠に此間は久々の儀にて、各にも晝夜
 御骨折忝存候、頓て埒明果可申候、乍此上其上にては、精進を頼申候と笑被申候へは、右之坊主衆泪を流され候、幼少の衆迄右之通に
 て、不淺仕合、何れも及落涙申候と被申候故、我等申候は左樣に可有御座候、度々如得御意候、初て各樣へ御意得て、心安きも不思議の
 御縁深き所、天道に叶候と申候事
(85)
一或時潮田又之丞被申聞候は、我等へ内蔵之助尋くれ候様にと申候、松平伊豫守樣へ居申候池田主水は、御出入仕候樣に承及候、御當家に
 上月名字之御衆御座候哉と御尋被申候、いかにも上月與右衛門と申候て、福島殿へ城代仕、隠なき者、只今の越中守親肥後守召抱申候、
 右與右衛門末子、上月八右衛門と申候て、番頭仕居申候、最早病死いたし、只今は孫の代にて、八代番頭申付候、池田主水殿事、譯はと
 くと不存候、いか樣當家代々心安筋も候哉、當越中守初て入國之刻より、船中主水殿領地にて候哉、下津井より水を船にて音信、使者も
 參候、此方よりも小姓組を返禮に遣申候と及返答候、其後内蔵之助、直に被申候は、扨々委細能御覺被成候、主水は私ためには伯父に
 て、只今の伊賀は従弟にて御座候と被申候故、我等申候は、上月八右衛門弟、上月三右衛門と申浪人、京都に居申候、此者の娘、主水殿
 の御親父出羽殿え進申候樣に承候と申候へは、扨々誠に能覺被成候、其三右衛門娘は、申さは拙者祖母分にて候、乍然此腹には、子は無
 御座と被申候、我等申候は右與右衛門事は、時代替り候故覺不申候、私親とは咄申候哉、與右衛門子共、いつれも心安咄、就中八右衛門
 は、近所にて、猶以心安仕候と申候へは、段々委被仰聞忝存候、拙者儀少内縁も有之候、九郎右衛門殿とは、いかやうの續にて候哉と被
 尋候、我等申候は、惣體九郎右衛門事は、遠江守樣同名にて御座候、平野氏傍輩ともにて多御座候、安藝守樣へ御座候は、九郎右衛門に
 は何程の續と申儀、不存候と及返答候、扨又序に書加置候、右池田主水祖父出羽と申、長久手之合戰に、御父子共に討死被成候、出羽は
 紀伊守樣御子にて候へとも、幼少故、御次男三左衛門輝政公、御家を被繼候て、只今の伊豫守樣迄御相續にて候、出羽は殊に御嫡子筋に
 て、三萬五千石にて、御家老相勤居申候、出羽も二代にて、初出羽は、右之通ゆゑ、蜂須賀蓬菴樣の御聟にて、松平阿波守樣御妹聟、就
 夫阿波守樣、妙解院(細川忠利)様御相聟にて、眞源院(同光尚)樣御爲に阿波守樣御伯母聟、其妹池田出羽奥方にて候へは、右之御由
 緒を以、御代々備前下津井にて、水船を出し被申事、能存居申候へとも、其譯は態とだまり、いか樣の譯か、代々心安御座候と迄及返答
 候、我等共先祖、池田の御家に居申候故承傳候、内蔵之助も能存知とは存候へ共、差扣候事

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