(81)
一平野九郎右衛門被申候は、皆共出候へは、何れも窮屈に被存候、緩々と語り申事も遠慮に存候、此段宜敷様に挨拶を致呉候樣にと被申候
に付、我等申候は、九郎右衛門は咄好にて候、五郎太夫も同然にて候、となたも規度御あしらひ被成候に付、御窮屈にも可被思召候、必
々無語遠慮、御心安緩々と御咄被成候はゞ、何も悅可申と申たる事
(82)
一何れも徒然の時分のためとて、平家物語、太平記なと出申候、老人衆眼鏡を、我等へ所望被致候、其儘調候て致持參候、三國志、同名平
八致所持候を出申候、吉田・原・磯谷なと切々見被申候事
(83)
一或時平野九郎右衛門、蓋茶碗にごまめを醤油にてにしめ、唐辛子かけ、茶うけにとて、宮村團之進持參めされ候由にて、我等へ被申候
は、是はあの衆へ出し申候はゞ、慰に成可申哉如何と被申候に付、成程能可有御座候とて、袂に入持參仕、すそわけ仕候とて出し候へ
は、何れも打寄、扨々是は忝、夜の藥酒被下候時分、肴に可仕とて、皆々紙に包取、悅被申候、惣體御酒も御伺被成候て、朝晩の御料理
にも、三遍より外は成不申候故、好被申候衆は、中椀にて給被申候、右の通にて、夜は藥酒とて所望被仕候様に成り、夜給被申候衆も有
之候事
(84)
一助右衛門被申候は、十五にか成候坊主衆、名は失念仕候、藥酒の酌に被參候刻、内蔵之助申候は、誠に此間は久々の儀にて、各にも晝夜
御骨折忝存候、頓て埒明果可申候、乍此上其上にては、精進を頼申候と笑被申候へは、右之坊主衆泪を流され候、幼少の衆迄右之通に
て、不淺仕合、何れも及落涙申候と被申候故、我等申候は左樣に可有御座候、度々如得御意候、初て各樣へ御意得て、心安きも不思議の
御縁深き所、天道に叶候と申候事
(85)
一或時潮田又之丞被申聞候は、我等へ内蔵之助尋くれ候様にと申候、松平伊豫守樣へ居申候池田主水は、御出入仕候樣に承及候、御當家に
上月名字之御衆御座候哉と御尋被申候、いかにも上月與右衛門と申候て、福島殿へ城代仕、隠なき者、只今の越中守親肥後守召抱申候、
右與右衛門末子、上月八右衛門と申候て、番頭仕居申候、最早病死いたし、只今は孫の代にて、八代番頭申付候、池田主水殿事、譯はと
くと不存候、いか樣當家代々心安筋も候哉、當越中守初て入國之刻より、船中主水殿領地にて候哉、下津井より水を船にて音信、使者も
參候、此方よりも小姓組を返禮に遣申候と及返答候、其後内蔵之助、直に被申候は、扨々委細能御覺被成候、主水は私ためには伯父に
て、只今の伊賀は従弟にて御座候と被申候故、我等申候は、上月八右衛門弟、上月三右衛門と申浪人、京都に居申候、此者の娘、主水殿
の御親父出羽殿え進申候樣に承候と申候へは、扨々誠に能覺被成候、其三右衛門娘は、申さは拙者祖母分にて候、乍然此腹には、子は無
御座と被申候、我等申候は右與右衛門事は、時代替り候故覺不申候、私親とは咄申候哉、與右衛門子共、いつれも心安咄、就中八右衛門
は、近所にて、猶以心安仕候と申候へは、段々委被仰聞忝存候、拙者儀少内縁も有之候、九郎右衛門殿とは、いかやうの續にて候哉と被
尋候、我等申候は、惣體九郎右衛門事は、遠江守樣同名にて御座候、平野氏傍輩ともにて多御座候、安藝守樣へ御座候は、九郎右衛門に
は何程の續と申儀、不存候と及返答候、扨又序に書加置候、右池田主水祖父出羽と申、長久手之合戰に、御父子共に討死被成候、出羽は
紀伊守樣御子にて候へとも、幼少故、御次男三左衛門輝政公、御家を被繼候て、只今の伊豫守樣迄御相續にて候、出羽は殊に御嫡子筋に
て、三萬五千石にて、御家老相勤居申候、出羽も二代にて、初出羽は、右之通ゆゑ、蜂須賀蓬菴樣の御聟にて、松平阿波守樣御妹聟、就
夫阿波守樣、妙解院(細川忠利)様御相聟にて、眞源院(同光尚)樣御爲に阿波守樣御伯母聟、其妹池田出羽奥方にて候へは、右之御由
緒を以、御代々備前下津井にて、水船を出し被申事、能存居申候へとも、其譯は態とだまり、いか樣の譯か、代々心安御座候と迄及返答
候、我等共先祖、池田の御家に居申候故承傳候、内蔵之助も能存知とは存候へ共、差扣候事