(73) 細川藩士・用人?
一いづれもたばこを好被申候故、宣しきを被仰付候へと、堀尾萬右衛門なとへも申候へども、惣體 太守様御嫌故、御客たはこまてにて
悪候故、それかし罷出候節は、念を入懐中仕、毎度何れも所望にて給被申候、或時間瀬久太夫、小野寺十内所望にて、たはこをすきと
うつし取、たはこ入返し被申候て、小聲にてとかく傳右衛門殿は、當世にては無御座候、古人にて御座候、御腹は立被申間敷と被申候
故、扨々迷惑仕候、たはこを御取被成候上、若き私を古人とは、近頃迷惑に存候と申候へは、此たはこ入の御物好にて、いつれも左樣
に存候と被申候故、見苦しく御座候へ共、皮がよくたはこを持候と返答仕候へは、いや/\、惣體當世にては無御座、乍慮外いつれ
も、神以存候と被申候、あれ是たはこ入懐中の衆中、随分奇麗に新たはこ入にて、樣々の物好き多く候へとも、皮か宜御座候ゆえ、才
覺いたし候、此たはこ入は、何れも度々手に取り申され候故、形見と存殘置候、肩きぬ譽申されたる時は、めいわくに存候か、古人と
被申候事は、ちと太慶と存候事
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一内蔵之助をはしめ、何れも被申候は、御番被成候御衆、其外御通被成各樣、最早久々の事にて、扨々ご苦勞千萬に存候、早く埒仕度と
被申候、拙者申候は、皆共も代り罷歸、心を付見候へは、各樣へ朝夕料理を進候手伝い荒仕子まても、少も苦に不仕随分御馳走仕度心
底と、日本の神見及候而、御苦に不被成候やうにと存候、右之通之儀は、偏に各様之御心故と、傍輩とも寄合御噂仕事に候と返答いた
し候、大石主税其砌強き風を引被申候樣に承候に付、隠岐守様御聞番に尋申候へと、同名平八に申候へは、即刻承候にもはや御快、食
事なとも進み候由、平八咄にて、委細承候と申候へは、内蔵之助被申候は、扨々被附於心、忝次第と斗にて、仔細は尋不被申候事、
(75)
一正月初頃次の間にて、忠右衛門被申候は、御町宅に被成御座候ヘは、定て色々咄をも御聞可被成候、不苦御咄共承度と被申候故、舊冬
より江戸中末々迄各樣御忠義の咄斗承候、舊冬二十七日八日頃か岡林杢之助殿と申仁、書置をして自害被仕候との沙汰承候と申候へ
者、忠右衛門暫く案し、いかにも左樣可有御座候、杢之助は千石取番頭仕居申候、成程誠にて可有御座と被申候へは、十郎左衛門被申
候は、傳右衛門殿御咄之通に候へは、忠左衛門殿いかゝ思召候や、おそしはやしと申ものにて候、今少見合、時節も可有之事と被申
候、能々了簡いたし候へは、深心にて存寄有之事と見え、別て感入たる事に候事
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一忠左衛門被申候は、傳右衛門殿、御通ひ被成候道筋は、いかゞと尋被申候故、大工町に居申候故、川岸端を通り、數寄屋橋を通候事も
有之、又用事御座候時は、道筋かへ申候、大形右之通にて、八官町通り申候と申し候ヘは、八官町の後に三輪丁と申候て有之候、夫に
内海道億と申、道三門弟御座候、相弟子なと、御家にも御座候樣に承及候と被申候故、成程町方にも大勢扶持なと遣置き候醫師御座候
へ共、識人無御座、家名なとも、初て承候樣の事共御座候と申候へは、御大家にて、誠に左樣に可有御座、此道億は随分療治もよく仕
候、内匠頭方へ居申候、一亂以後浪人にて、町宅に居申候へとも、脇々の療治を止、皆共類在江戸之者迄療治仕呉候て、志有之者にて
候、御隙之刻、御寄りにて候へとも、御立寄御咄被成候へかしと被申候故、夫は奇特成儀に候、いつそ立寄可申と申候、其後立寄知る
人に成、緩々御承候へは、在江戸にて、京大坂に被居候衆へは、萬事此道億へ通し合被申候由、京都に寺井玄渓父子にて、互に通し合
被申候、以後承候、玄渓子息玄達と申候由、最期の時、内海道億樣大石内蔵之助と、上書きの大きなる書状、原惣右衛門手跡にて調申
たるを、惣右衛門拙者へ、是を届呉候へとの頼にて、同名平八に申置歸候後、平八も道億居所不存、(三宅)藤兵衛殿へ持參之處、御
前へ上り申候由平八申聞候、道億え見廻候節、寺井玄渓より參候書中之内、拙者言傳を切抜、見せ被申し押す蝋を寫置候、此文章略す
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一原惣右衛門被申候は、本町呉服物共、定て大勢出入可仕候、本丁に、京都より寺井玄達と申醫師參居候、舊冬京都え歸申筈に御座候、
いつ頃歸被申候や本丁より出入の者に、御聞被下候へと被申候故、本丁一丁目、七文字屋彌三右衛門方え居被申候寺井玄達、極月二十
六日、京都へ歸候由承候て、惣右衛門え申達候、是は京都より内蔵之助なとへ付候て、病用に被參候由、後に承候事